アレン女史とヴォーリズ氏

創立者タマシン・アレン女史と、建築遺産久慈幼稚園舎を設計したウィリアム・メレル・ヴォーリズ

東北工業大学安全安心生活デザイン学科 大沼正寛 編著 (元東北文化学園大学 准教授)
研究調査報告「地域遺産の継承と再生デザイン 久慈社会館・幼稚園を中心に」 より抜粋

C班は、久慈幼稚園の建築的特質を主に建築計画の歴史を探ることで明らかにしようと、この建物をとりまく3人の要人に着目し、人物史を探るとともに、アレン宣教師館と遺品類を中心に観察した。

東北文化学園久慈キャンパスは、平成14年までは全寮制のミッションカレッジ、アレン国際短期大学であった。短大創設は昭和45年(1970)であるが、その前身は久慈名誉市民・タマシン・アレン女史が創設中核者となった、幼児教育・社会福祉・キリスト教伝導の総合拠点「久慈社会館」である。施工としては昭和13年(1938)の久慈幼稚園が最初で、以降久慈協会、頌美小学校および同中学校、さらに酪農学校や短大も開校させ、幼児および生涯教育、地域福祉、宗教精神を実践展開した。
アレン女史はどんな人物だったのだろうか。

タマシン・アレン女史

タマシン・アレン女史近影
タマシン・アレンは明治23年(1890年9月30日)にアメリカのインディアナ州に生まれた。フランクリン大学・ニューヨーク聖書神学校を卒業後、小さい頃の母親の教えから、宣教師になることを目指した。
大正4年(1915)、25歳の若さでキリスト教バプテスト派貴婦人宣教師として来日し、東京・仙台・福島・遠野・盛岡で女学校教師として奉職する一方、不況の地への慰問活動をしていた。その慰問活動を行う中で、久慈地方の乳児死亡率が全国ワースト3位に入ることを知り、日本赤十字社の協力を得て、乳母子の生活指導(保健活動)を行うとともに、乳児教育の必要性を痛感する。
昭和13年(1938)、48歳の時、かつての教え子である矢幅クニ女史(旧姓小原)の導きもあって、盛岡から久慈に居を移し、同年間もなく久慈幼稚園を開園した。翌年の昭和14年(1939年)には現校地に園舎が竣工、翌年に現幼稚園を開設し、続いて昭和16年(1941)には宣教師館(現在のアレン記念館)を建て、矢幅女史とともに生活しながら教育その他に献身する。
その後間もなく日中戦争、太平洋戦争が起こり、キリスト教に対する取り締まりが強化され、戦争が本格化、苦痛な抑留生活を経てアメリカへ強制帰国させられる。
歴史を感じる園庭の大きな木
帰国後は日本紹介のため全米各地を歴訪し、特にカリフォルニア州のツルレークにおいて、日本人抑留者数万人のために弁護人・通訳となって献身的に奉仕した。昭和22年(1947)には再来日し、久慈地域での社会福祉活動を再開する。その活動は精力的に拡大、多くの協力者を得て、昭和23年(1948)、農村青年の教育及び生活改善のための短期農民副音学校と、地域医療拡充化のために久慈社会館付属診療所を開設し、24時間体制辺地無医村地域などの訪問医療と援助にあたった。また、昭和35年(1960)のチリ地震津波被害者救済(久慈~高田地方)もきわめて献身的なものであった。
そして教育分野では、昭和22年より久慈高等学校の英語教師として教鞭をとり、地域の英語教育に貢献し、自らは昭和27年(1952)、学校法人頌美(ほまれ)学園を設立して理事長となった。同年頌美小学校を開校、定員10名のキリスト教の精神を取り入れた少人数の生きる力を育む教育を建学の理念とした。5年後の昭和33年(1958)頌美中学校および大野村に岩手酪農学校を開設し、当敷地には幼・小・中の一貫した教育体制が作られたが、しかし、それ以上の高等教育機関の設立も期待されるようになる。この間、昭和33年(1958)に勲五等瑞宝章を受章、昭和34年(1959)には、フランクリン大学から文学博士の名誉学位を授与され、同年、久慈市の名誉市民の推挙を受けた。昭和45年(1970)には、日本の若者に国際化に即した教育を施すことを目指し念願の高等教育機関であるアレン短期大学を設立、初代学長に就任する。聖書学者・哲学学者として世に知られ、アメリカの有名大学からも主任教師に迎えたいという招へいの手紙を何度ももらいつつも、若き日に会得したキリストの生と死を志してその生を最後の日まで、異国の地、久慈に注ぐことを決意し、1976年6月7日 享年85歳9ヵ月で召天されました。

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏

ヴォーリズ氏近影
久慈キャンパス内の建物の幼稚園・宣教師館・事務所・アレン短大はヴォーリズ事務所が設計を担当している。ウィリアム・メレル・ヴォーリズは神戸女学院などの著名作品で知られる当時のミッション建築の雄で、現在はヴォーリズ建築ネットワークができているほど作品数、そしてファンも多い。また近年は滋賀県豊郷小学校の保存活用問題でも話題となった。ただし異色なのは彼が単なる建築家ではなく、元々伝道師、教師であり、家庭常備薬メンソレータムの販売特許を持つヴォーリズ合名会社の代表であることだ。しかしながら作品リストにおいて、久慈幼稚園・宣教師館を詳述したものはない。ヴォーリズは仕事が多かったため、あまり久慈地方には訪れることが出来なかったことも考えられるが、施主であるアレン女史とは何度か会っている逸話が残っているし、また女史自身が建設費の工面や建築材料の輸入に尽力していたというエピソードもある。
平谷鉄男棟梁近影
しかしいずれにしても、現場で細かい設計や施工手法を決める技術者が必要だった。当初は、盛岡の大工に依頼をしたが、ヴォーリズやアメリカ留学中に建築を学んでいた矢幅クニ女史の注文に応えるには、技術不足であったため、久慈の名大工といわれた平谷鉄男棟梁に白羽の矢が立った。当時の平谷棟梁の技術がどれだけ認知されていたかは定かではないし、当時はまだ年齢にして35歳の頃である。しかし彼が趣味で作った工芸品でさえ、なかなか右に出るものはいない程だったというから、信頼を寄せられるにいたったものと推察される。平谷棟梁は、ヴォーリズの期待以上に毎日にように建物の補修や増改築に携わったと伝えられている。

アレン女史を中心に、建物をとりまく3人のライフ・ヒストリーを垣間見ることで、この時代に生きた人々の想い、社会貢献のこころを知ることができた。以上の話は、平谷棟梁の義理の娘にあたる京子さんからお聞きした内容も参考にしているが、久慈幼稚園が大切に使いこまれている理由が理解できたような気がする。「建物は外観よりもむしろその内部に暮らす人々のためにある」といったのは図らずもヴォーリズ自身であったが、それをよく体現している施設であるような気がした。



ヴォーリス設計の園舎園舎の園庭側。
上の当時の写真と同じ方向から見た現在の園舎
久慈幼稚園舎の入口



下駄箱入れの取っ手も人間工学にもとづいた特別設計園舎入口の内部久慈幼稚園事務棟
参考
ヴォーリズ記念館 http://www.vories.com
大丸心斎橋店の建築美 http://www.daimaru.co.jp/shinsaibashi/vories/