国見テラス(2012年度)

総合政策学部教員によるリレーエッセイ

東北文化学園大学は仙台の町並みが見渡せる仙台市国見地区にあります。「国見テラス」のコーナーでは、国見の丘から、総合政策学部教員による気楽なエッセイをお届けしています。

テスト期間のエピソード

2013.3.29
総合政策学部准教授 大野 朝子

この原稿を執筆している今の時期はちょうどテスト期間で、研究室で仕事をしていると時々学生が試験のことで質問にやってくる。先日も学生が再試験のことで訪ねてきた。先日行った試験で不合格の学生に再試験の連絡をした直後だった。その学生によると、自分は勉強してテストに臨んだし、よく出来たはずなので、解答用紙を確認したい、ということだった。やる気のある学生だったが、まさに「あと一歩」のところで残念ながら不合格になってしまった。答案を見てかなりがっかりしている様子だったが、私からは、「がんばってね!」「このチャンスを生かしてしっかり勉強すれば、将来きっと役に立つから」としか言えなかった。もっと気の利いた話をしたかったのだが。いずれにせよ、失敗がその後の大きなステップアップにつながるということを、学生もいずれ実感する時がくるはずだから・・・と信じ、テストの結果を待つことにした。
学生が訪ねてきたとき、私はちょうど米国出身のチェンバロ奏者、スコット・ロスのCDをBGMに流していた。スコット・ロスは6歳からピアノを始め、わずか13歳でフランスに移り、パリ音楽院などで研鑽を積んだ。彼は14歳のときにブルージュ国際チェンバロ・コンクールを受けたが、セミ・ファイナルで終わってしまった。当時の審査員のケネス・ギルバートは、意見を求めてきたロスに対し、「3年間姿を消しなさい」と助言したという。彼の言葉どおり3年間猛勉強をしたロスは、17歳のときに再チャレンジをして、見事に優勝に輝いた。14歳のときの失敗がなければ、その後のロスの名声はなかったかもしれない。ロスは30代後半から不治の病におかされ、惜しまれつつ38歳でこの世を去った。しかし彼の偉業は現在でも音楽愛好家の語り草になっている。雪景色にぴったり合うロスの凛とした演奏を聴きながら、学生たちには諦めずに自分を信じて学業を頑張ってほしい、と改めて思った。そして彼らが努力している姿を見て、私も教員としてしっかりサポートしなければ、と気持ちを新たにした。(後日、再試験を実施したところ、例の学生は90点以上の点数を獲得して見事に合格した。テスト終了後の学生たちの笑顔を見ていたら、日ごろの疲れが一瞬にして消えてなくなるような気がした。)

ザンビア暮らし② 平等主義と殺し文句

2013.3.22
総合政策学部教授 岡 惠介

アフリカに行く前、彼らの社会の平等主義について講義しながら、実はその現実の部分はちっともわかってなかったのだと思う。平等社会が実現されている、いわば理想郷のようなイメージでとらえ、そこでは自分も平等に、愉しく暮らせるのだろうと想像していた。
しかし1991年の夏、アフリカの地に降り立った私は、ひと言でいえば、お金持ちの日本人であった。私は彼らのなかで、常に分け与え続けなければならない側の人間だった。
もちろん私は、彼らの電気も水道もないあの村に、文明の道具を持ち込んで行ったわけではない。なるべく彼らの暮らしに近づき、溶けこむべく、ルサカ(ザンビアの首都)で買った中国製のランプや、インド製の食器や、ユーゴスラビア製の自転車、つまり彼らに入手可能なものに留めようとした。
しかし、そうはできなかったもののひとつが、調査を記録するためのカメラである。そしてそれは、ベンバの村人たちにとっては、めったにない写真を撮ってもらえるチャンスがやってきたことを意味していた。
ひと通り親しい人々を撮って、これでお終いとするのだが、終わりはしない。この服で撮ってくれなどと、手を変え品を変え何度も要求される。断られるとわかっていても、会えば毎回要求する人もいる。実にしつこく粘る人もいる。そう、まさに要求なのだ。
彼らの規範からすれば、カメラを持てる者が、持たざる者を撮るのは当然で、お願したり、頼んだりするようなことでもなんでもない。そして撮らなければ、「なぜあいつを撮ったのに私を撮らない?お前は私にクタナ*するのだな?!」という、伝家の宝刀、呪い殺されても仕方ない、まさに殺し文句が発せられるのだった。*クタナ・・・持っているのに分け与えないことを意味するベンバ語。道徳的に非常に悪いこととされ、これをすれば呪い殺されても文句は言えない。

「温故知新」

2013.3.15
総合政策学部教授 文 慶喆

「温故知新」ということばがある。あまりにも有名で、よく引用されることばの一つでもある。出典は孔子の『論語』の「偽政編」で、「古きをたずねて、新しきを知る」となる。一般的には「温故知新」と四字熟語として使われるのが多いが、原文は次のように少し長い。「温故而知新可以為師矣」、即ち「古きを学びて、新しきを悟れば、人の師になれる」という意味である。「温故知新」は「温故」と「知新」が対称的になっている。また、「温」と「知」、「故」と「新」がそれぞれ対になっている。中国語の語順は動詞の後に目的語が来るので、「故」と「新」は、「古いもの」と「新しいもの」という名詞になる。これを勉強した時、「知」は分かったけど、「温」の意味がなかなか掴めなかった。ある日、先生が「質問?」というので、「温」の意味が難しいとこれを聞いた。先生は「多義語」の説明の後に、「温」は形容詞では「温かい」という意味だけど、ここでは動詞として使っているので「学ぶ、習う」という意味になると教えてくれた。この説明は理解した。しかし、私が聞きたかったのはそれではなかった。私はもうすでに五才の時から漢文に接しているので、それくらいは分かっていた。疑問は「温」の使い方であった。孔子は『論語』の「学而編」の最初のところで、「学而時習之、不亦説呼(学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや)」と言って、「学」や「習」の意味を説きながら、この語を使っている。「学」と「習」を合わせた「学習」は後に中国語で「勉強」という語になった。それなのに、なぜ「学」や「習」ではなく、ここでは「温」を使ったのか。この疑問に見事に答えてくれたのが、後漢時代の有名な儒学者、「鄭玄」の注釈であった。「温故知新」は『論語』の他に『中庸』の「二十七章」にも出てくる。鄭玄は「温故」を、「古きを学んで、心の中でそれを温め、抱いているさま(「尋温」)と解釈した。まるで肉を温めて、調理をするようなさまで説明したのである。心の中で温めることが、新しきを知る前提だとしている。「古きをたずねて、新しきを知る」。勿論、「古いもの」は「古いもの」、「新しいもの」は「新しいもの」に違いない。これをどう温めるか。温めて新しきを知ることができるのか。
意外などころにもその答えはあった。歴史学者E・H・カーの『歴史は何か?(What is history?)』という本である。E・H・カーは歴史を説明しながら「歴史は過去と現在の対話である」と定義した。もし歴史が客観的な事実だけであれば、後世の我々には何の意味もない。過去との絶えない対話を通して、未来を展望するのである。我々の未来は過去の中にあるのではなく、絶えない対話を通して過去の中から探せるのである。
「温故知新」。私が習った韓国語訳では「古いことから学び」となっていたが、和文解釈には「古きをたずねて」とした。「学び」ではなく「たずねて」である。見事な解釈だと感心したのである。

もしも花を楽しみたいなら

2013.3.8
総合政策学部教授 伊藤 雅之

筆者は、1996年にドイツのシュツットガルト市(ベンツとサッカーで有名)にあるクラインガルテン(市民農園)を視察した。市が、都市郊外に農地を造成し、300㎡程度の区画ごとに市民に貸し出すというもので、バブル崩壊に悩んでいた当時の日本でもブームになった。クラインガルテンでは、全体の3分の1以上の面積で自家消費の野菜を栽培する決まりがあるが、担当者によると野菜栽培面積を最小限にして花や芝生を植えているところが多いとのことであった。都市に住む市民に余暇を楽しむ空間を提供する意味合いが強いと感じた。日本では、市民が野菜を栽培するために1年ごとに畑を借りる形態の市民農園が多いが、ドイツのクラインガルテンでは利用権の期限制約はなく世代間継承も可能となっていた。
花は、「見る」「贈る」「香る」「食べる」などいろいろな場面で我々に喜びやうるおいを与えてくれる。いつも、また将来にわたって花を楽しむためにはどうしたらよいだろうか。
「もしも、明日、あなたが花を楽しみたいなら」
⇒花屋さんへ行き花を買って飾りましょう
「もしも、数週間後、あなたが花を楽しみたいなら」
⇒ポット植えの苗を買って水をやりながら育てましょう
「もしも、数か月後、あなたが花を楽しみたいなら」
⇒花の種を買って鉢や庭にまいて育てましょう
「もしも、数年後、あなたが花を楽しみたいなら」
⇒木の苗を買って庭に植えて育てましょう
「もしも、10年後、あなたが花を楽しみたいなら」
⇒花を大切にする若者を育てましょう
皆さんはどのようにして花を楽しんでいますか?

国連職員になるはずだったのに

2013.3.1
総合政策学部准教授 立花 顕一郎

毎年、新入学の学生から聞かれるのが、「なぜ大学の英語教員になったのですか?」という質問です。今回はその理由について書いてみようと思います。一言でいえば、行き当たりばったり生きてきたら、いつの間にか大学で英語を教えていたのです。高校および大学で学んでいた頃の私は海外の文化や英語に特に強い興味があったというわけではありませんでした。当時学んだことのなかで今でも役に立っていることを一つ挙げるとすれば、タイピングの技術です。大学では商学部に所属していましたが、商業実習関連の科目としてタイピングを学ぶクラスがあり、初級と上級の2クラスを履修しました。商学部では英文科と違ってタイピングのクラスを履修する学生が数人しかいませんでしたので、指導教員はとても親切に指導してくれました。そもそも、私が英文タイプを学ぼうと思ったきっかけは、英文科の友達が買ったタイプライターを見せてもらってかっこいいなと憧れたからでした。しかし、その時学んだ技術が後々仕事で大いに役に立つとは当時の私には想像もつきませんでした。
大学卒業後は普通に就職したのですが、入社して間もないころにテレビのニュース番組で日本人の国連職員が当時不足していたということを知ります。おっちょこちょいの私は、自分でも国連職員になれるのでは思い、その当時、千駄ヶ谷にあった津田国際研修センターの国際公務員志望者訓練コースに夜間通うことにしました。ちなみに、私の高校時代の友達も偶然にそのニュースを見て国連職員を志し、今では国連高等弁務官として活躍しています。しかし、私はちょっと横道に逸れてしまいました。同じ夢を持つ仲間の一人から国連職員になるには修士以上の学位が必要だと知らされて、アメリカの大学院を目指すことにしたのです。結局、アメリカには企業派遣と私費とで合計2回留学しました(その時に経験したことについてはまた別の機会に書こうと思います)。その後、仙台で仕事を探したのですが、しばらく職を得られないでいた時に、偶然にもフリーペーパーでスペイン語を無料で教えている先生の記事を目にしました。それまでスペイン語を学ぼうなんて一度も思ったことがないのに、その時は迷わず受講を申し込んだのです。今思えば、それが人生の分かれ目でした。その先生が私に語学教員の学会に入るように勧めてくれて、学会からの求人情報を利用して職を探しなさいと助言もしてくれたのです。西洋の古いことわざにも「The dog that trots about finds a bone.」というのがありますが、人間どこでだれにお世話になるかは本当に分からないものです。

アーミッシュの村

2013.2.22
総合政策学部准教授 大野 朝子

もう10年以上前のことになるが、留学中の友人を訪ねて米国北西部ペンシルヴァニア州に遊びに行ったことがある。友人が住む家の近くには、「アーミッシュ」と呼ばれる人々が住むコミュニティがあるというので、早速連れて行ってもらった。アーミッシュはドイツ系の移民で、独自の信仰に基づき、農耕、牧畜を中心とした自給自足の生活を送っている。彼らは電気、ガス、水道、自動車、電話を使わず、服装もまったく昔のままで、開拓時代の生活様式を現在も維持している。話には聞いていたが、実際に目にしたときは本当に驚いた。
むかし吉幾三の歌「おら東京さ行ぐだ」が流行り、たしか「テレビもねえ、ラジオもねえ」「電話もねえ」「オラの村には電気がねえ」という歌詞が含まれていた。田舎暮らしにウンザリして上京する若者の心情を描写したものだったが、アーミッシュの人たちは自らすすんでテクノロジーに背を向けた生活をしている。一口にアーミッシュと言っても、コミュニティによって生活形態や外部との接触方法に差があるようだが、私が訪れたところでは、人々に近づくことは許されていなかった。私はアーミッシュの人々が広い畑で馬車を使って農作業をしている様子を遠目に見ただけであったが、「本当にこれが21世紀なのか?」と目を疑ってしまった。数百年前のヨーロッパの農村にタイム・スリップしたような情景だったからだ。
アーミッシュの生活については、1985年のハリソン・フォード主演の映画『刑事ジョン・ブック』を通して知ることができる。過去に学生に紹介したところ、一人の学生が「すっかりハマりました」と話してくれた。実際にアーミッシュの人気は本国でも根強く、オンライン上の書店で検索してみたところ、書籍が次々出版されていることがわかった。伝統を頑固に守り抜く彼らの生き方は、テクノロジーのめまぐるしい発展に振り回され、次々と新しい商品を買わされ、メディアの情報操作によって踊らされがちな現代人に、本当に大切なものは何かを教えてくれる。実際、アーミッシュのコミュニティも時代の変化に翻弄され、内部で問題が起きているというが、徹底的に簡素な生活を貫く彼らの写真を見ていると、なぜかホッとするのは自分だけではないようだ。

就活と「ジョハリの窓」

2013.2.15
総合政策学部准教授 飯笹 佐代子

就活の解禁日以降、3年のゼミ学生たちが集まると、先ずは必ず就活関連の話題になる。つい先日のゼミ授業でも、面接での自己アピールの話題が出て、自分で思っている自己と、他人から思われている自己とは意外とずれているかもしれない、という話に展開していった。そこで、即興の「品評会」ならぬ「人評会」?のゲームを試みた。約10名のゼミ生ひとりひとりの長所やイメージについて、他のゼミ生が自由に一言で表現するというものである。
「頼りがいがある」、「一緒にいると安心」、「流されない強い意志」、「ムードメーカー」、「感性が豊か」、「理知的」、「発想がユニーク」、「ソフトだけど芯が強い」、「気遣いの人」、「地震や危機の際に一緒に行動したい人」、「チャレンジ精神がある」、「芸術的なセンスがある」、「他の人にない観察力」、「友達の輪をつなぐ人」などなど、さまざまな表現が飛び交った。言葉を探す方も真剣だし、それを聞く本人もちょっと照れながら、こちらも真剣。それにしても、十人十色、それぞれの異なる長所やイメージを「なるほど!」と思わせるような的確な言葉で表現していく学生たちの観察力には感心した。
ところで、社会学の授業では必ず取り上げるのだが、アメリカの二人の心理学者が提唱した「ジョハリの窓」(図)という有名な自己のモデルがある。自己には、「開放された窓」(自分も他人もわかっている部分)、「隠された窓」(自分だけがわかっている部分)、「見えない窓」(他人だけがわかっている部分)、「未知の窓」(自分も他人もわかっていない部分)の4つの次元が存在するという。スムーズなコミュニケーションのためには、「見えない窓」と「隠された窓」をできるだけ小さくするのが良いとされる。ゼミでとっさに思いついたゲームが、ゼミ生たちの新たな自己発見につながり、「見えない窓」を小さくして「開放された窓」を広げることに少しは役立ったと思いたい。そして、彼らはそれぞれの「未知の窓」にどんな可能性を秘めているのだろうか。就活がその可能性の開花に向けた第一歩になることを心から願いたい。

Austin Street with Museums

2013.2.8
総合政策学部准教授 馬内 里美

前回は土橋通りとその北に続く道の話であるが、今回は南に続く道の話である。土橋通りの名の由来は、南のZ形に曲がった先に設けた土橋に由来する。つまり土橋通りとその北に続く道は分水界だと言ったが、南では、土橋通りの西を流れていた水の流れが広瀬川に向かい南下していた。そこに土橋を設け、谷を、さらに広瀬川を渡ったのである。昔の人々はどれだけ、水に泣かされたのだろうか。澱橋ができる前は、土橋を越えた後谷沿いに進み、下流で川を越えた。それ以前は、さらに下流の支倉あたりで川を越えていた。谷や川に橋を架け、何度も橋を流される紆余曲折を経ながら、昔の人々は川の渡りかたを獲得していったのだろう。苦労が偲ばれる。
昭和20年代半ばに米国占領軍作成した仙台の地図では、通りに英語名がつけられていた。南北に走る通りには、アメリカの都市名、東西に走る通りには樹木の名前が冠されている。土橋通りはAustin Streetと名づけられた。興味深いのは、さらに澱橋を越え、現在の仙台市博物館近くまでがAustin Streetだったことである。この通りには宮城県美術館もある。美術館では、東山魁夷展が、博物館では、「江戸の旅 たどる道 描かれる風景」が開催された。どちらに先に行くか悩んだ末、二つの展示を続けて見ることにした。
土橋通りは歴史に思いをはせながらたどることのできる道だが、今、大きく変わろうとしている。国道48号線から、広い道が澱橋方面に向かってまっすぐ伸びる道路が建設中である。Z形に曲がる必要がなくなるのである。
「江戸の旅」では、「山水癖」など「癖(へき)」と呼ばれたマニアのことを知った。マニアは山や滝など、自分で絵を描いたり、絵描きに描かせたりした。展示で見る限り、いちばん偏愛を受けたのは富士山のようだ。
東山魁夷も「癖」と呼べるかもしれないが、風景画の対象は多岐にわたり、多くの人々に好まれている点で、「癖」を超えている。展示では、見てみたかった「道」の習作を見ることができた。自分の見る目のなさを告白することになるが、私も何度も電車で通ったことのある青森県種差海岸で描いた絵でなければ、気にも留めなかっただろう。それほどシンプルな構図の絵であるが、若き日の代表作である。緩やかに上るまっすぐの道がある。その道は、その後緩やかに下り右に曲がっていく。その先は海のはずだ。一つの道を思い、その道にある美術館で、心象風景の道をみる。歴史の道と心の道がつながる。

「ザンビア暮らし① アフリカの平等主義」

2013.2.1
総合政策学部教授 岡 惠介

アフリカの、とくに狩猟採集民の社会でみられる大きな特徴は、徹底した平等主義である。彼らは獲物をとったら必ず仲間に平等に分け与え、しかも分けてやったという尊大な態度は許されない。むしろ、こんな小さな獲物しかとれなかったのかという揶揄にさえ、沈黙して耐えることを強いられる。
社会のなかで個が突出した存在にならぬよう、英雄を生みださず、常に皆が平等であることへの強い執着が生み出す、社会的な規範である。そしてこの傾向は、私が半年間暮らしたザンビアの焼畑農耕を生業とする草原の民、ベンバの人々にも共通していた。
彼らの平等主義は、持てる者は分け与えなければならないという原則によって支えられている。多くのものを持ちながら他者に分け与えない行為は、我々の社会からは想像できないほど、おきて破りの行為なのである。
ベンバ語では、分け与えないという意味の言葉を「クタナ」と言い、「お前は私にクタナしたな」と言われたら、これはもうかなり深刻な事態を意味する。彼らの価値観では、クタナはもっとも悪いことであり、もしそれが事実であるなら、呪い殺されようと文句は言えない。
ちなみにアフリカの多くの部族社会では、死因のなかに呪詛によるものを認知する社会は少なくなく、ある部族ではすべての死因は呪詛によるものだと考えられている。ベンバの社会でも、恨みをかって呪われれば人は死ぬ、と怖れられているのだ。
人に施さず、自らの身を肥えさせることばかり考えているような、どこかの国の政治家など、この社会においてはあっという間に呪われ、葬り去られてしまうに違いない。ここまで貫徹した平等主義に直面し、私はたじろいだ。

なぜ学校に行くのか?

2013.1.25
総合政策学部教授 文 慶喆

私が生まれたのはバスも走らない山奥の小さい村であった。山奥と言ってもその山は低く、平野でも山でもない小高い丘が海に面して広がっているところだった。海に面していてもその海は遠浅で、漁をすることは難しく、皆は狭い谷間での稲作で暮らしを立てていた。そこは村でもなかった。当時は木が主に燃料として使われていたため、皆は一定の森と一緒に家を構え、家と家との間隔が広く、韓国でも有数の典型的な散村であった。家と家との距離は近くても500メートル以上は離れていた。私は六歳に小学校に入り、そこから山道を一時間歩いて学校に通った。しかし、私にはこれが初めての学校ではなかった。小学校に入る一年前から「書堂」という漢文塾で漢文を習っていた。「天地玄黄、宇宙洪荒」から始まる『千字文』から次に『童蒙先習』も習った。勉強と言ってもすべてが丸暗記だった。休む時間もなく、一字一字書きながらひたすら覚えていた。いよいよ『明心寶鑑』に入ろうとした時、「書堂」をやめることになった。時代は変わった。古臭い漢文教育は今の時代には役に立たない。新しい教育が必要だ。それで小学校に入ることになった。小学校という名前も当時はまだ「国民学校」のままだった。学校に行くのはとても楽しかった。学校に行く道端には色んな草花が咲き乱れ、小鳥が巣を作っていた。学校の帰りには、おやつのように木の実を取って食べるのも楽しみの一つだった。しかし、勉強は全然面白くなかった。五歳の時習った千字文のような天地万物の理を説いてくれるところか、国民学校では歌ったり、絵を描いたり、走ったり、体操をしたりすることが多かった。苦手な科目が多く、書堂の優等生だった私には、単なる遊びにしか見えなかった。学校に行くのがつらくなって、親に聞いた。なぜ学校に行くのかと。帰ってきた答えは、「学校に行かないと大人になれないよ」だった。大人になるために学校に行くのか。納得がいかなかった。そのとき、親から買ってもらった本が「サン・テグジュペリ」の『星の王子さま』だった。あまりにも面白く、一晩で一気に読み漁った。王子さまは色んな星に行って、色んな人に出会った。命令することしか知らない人の星、自分が一番偉いとうぬぼれている男の星、一日中飲んでいる呑み助の星、星を数えて引き出しに隠している実業家の星、灯りをつけたり消したり忙しい点灯夫の星、地理学者の大きな星を経て、七番目に地球という星に来た。ここでキツネに出会って「関係(concerned)」について悟る。皆で一緒に生きるという所に「関係」はある。学校では変化と新しいシステムを恐れない方法を学び、自分と違う他人を理解させる方法を学ぶ。学校も小さい社会なので共同体を経験し、責任を負う方法を学ぶ。また、社会では教えてくれない善と正義について学ぶ。単なる知識と技術であれば、いまは一人でも、インターネットでも学ぶことはできる。なぜ学校に行かなければならないのか。自分を振り返ってみて、今の学生にはなぜ学校に行くのかを学び、学び方を学び、人の心を理解する方法を身に付けて、社会に出てほしいと思っている。

大地の芸術祭~知られざる学校の歴史

2013.1.18
総合政策学部教授 志賀野 桂一

カタクリの宿

新潟の十日町を中心に3年毎に行われる芸術祭はすっかり地元に定着したかのように見える。特徴は空き家や学校の転用で、それらの空間は作品とともに地域の新しい文化資源として再生されている。きっかけは平成の大合併を見据えた「ニュー新潟里創プラン」という地域政策の中で生まれたのがこの芸術祭である。なぜ地域政策にアートを使うなどという発想が生まれたのか、初期のころは猛反対と「何を馬鹿なとことを」と冷笑を浴びせられながらここまで創りあげたプロデューサーの北川フラム氏に頭が下がる。アートによる地域活性化は今や常識となり全国的に広がりつつある。その原点とも言えるのがこの大地の芸術祭である。
今年の夏3日ほどかけて回った。この中で北川フラム氏の構想の出発点となった地区、津南町秋山郷に泊まることとなった。ここに学校を転用したカタクリの宿がある。(昭和61年に休校、平成4年に廃校となり、平成5年に体験交流施設として整備される)
この施設の由来をひもといてビックリする事実がわかったので紹介したい。それはこの集落があまりにも豪雪と不便な土地柄であるため、明治25年に「義務教育免除地指定」宣告がなされ、その撤回を求める住民運動の歴史があったことである。集落の人々にとって死にも等しい義務教育免除地指定宣告は、現代の飢饉とも言われ、免除地解除の嘆願や署名活動など長い運動の結果、昭和11年12月21日にようやく解除されたのである。
43年間という国の教育行政から見捨てられた集落の人々の想いは推察するに余りある。あたり前に義務教育が授けられる子どもたちのなんと幸せなことか。秋山郷の集落の人々は「教育を受けたい、子どもに教育を受けさせたいという気持ちはどの地域より強く残っている」という。したがって学校と旧校舎に対する村人の愛着は都市部のそれとは比べものにならない。
廃校になった学校はいま作品展示と宿と交流施設に再生され活用されている。大地の芸術祭をきっかけに生まれたNPO法人「越後妻有里山協働機構」が経営にあたっている。カタクリの宿はそんな想いのこめられた宿であった。

田島征三の作品

九寨溝・蔵刀売りの少年(3)

2013.1.11
総合政策学部准教授 王 元

私たちの問答は続いた。私は彼に「自由でなくなった」という例を挙げてもらった。彼の言った話によれば、以前は自由自在に食べたら歌い、歌ったら寝、寝て起きたら食べ、思ったとおりにやっていた。山に登って火を放って木を焼き、野生動物を捕まえて焼いたりしてもお咎めなし、熊猫(パンダ)だって食べてよかったのだそうだ。しかし、今では山を保護し、森林を保護し、野生動物を保護しなければならなくなってしまった。それなのに、肝心の人間だけは保護してくれないということであった。
彼からそこまで聞いてしまったために、それ以上、彼と話しを続けることができなくなった。そのため、彼には土産物の蔵刀のことを持ち出さず、最後に残された伝統を残してあげることにした。実のところ、私はすでに彼に話しかけた最初の理由を忘れてしまっていたのである。
しかし、しばらくしてから、彼の話が本心からのものであったかどうか、ひょっとしたら口から出まかせに話しただけかもしれないし、故意にそのように話したのかもしれないという疑念が湧き始めた。また、彼はただの蔵刀売りの若者にすぎないのではないかとも思った。
しかし、彼がどのような人間であろうとも、その時の彼の話は深く私の心に響き、長い間、考えさせてくれたことは事実である。彼が話した内容こそ、私たちが真剣に考えるべきことなのだろう。たとえ、それが彼自身にとっては彼が言うほどに悲しむべきことではないとしても、彼より年配の人々にとってそれは深刻な問題なのかもしれないのである。
そして、そのように考えた場合、現在の中国がとっている一人っ子政策はどのように論じられるべきなのだろうか。中国の人口問題は国内に対してばかりでなく、世界に対しても巨大な圧力をもたらしている。その問題を解決するために、また、中国ができるだけ早く経済成長を遂げるために一人っ子政策は必要な政策手段であり、それがすべての中国人に利益をもたらすことになるかもしれない。しかし、一人っ子政策が基本的人権を侵犯しているという事情も無視することはできない。子供を産み育てるよりも大切な人権とはいったい何なのだろうか。

蘆葦海(「海」とはチベット語で「湖」を指すものである)。資料写真。

木の声、土の歌(3)

2013.1.4
総合政策学部教授 秡川 信弘

100万年前、私たちのご先祖様たちはいったい何をしていたのだろうか?
考古学的知見によれば、アフリカ大陸で誕生した私たち人類の祖先は、その頃、当時の先端機器である石器や火を使いながらユーラシア大陸へと移動していたとされる。その後、彼らはウルム氷期後の1万年間前頃から生存様式を大きく変化させてきた。周知のように、日々の暮らしを支える活動の中心を狩猟採集から農業、さらに工業へと移行させ、主たるエネルギー源も太陽と水によって年々再生産される植物資源から石炭、石油、ガス、ウランなどの埋蔵された植物資源や鉱物資源へと変化させながら、他の生物種が営む自然生態系から著しく逸脱した高度に人工的な文明を発達させてきた。
ちなみに、我が国エネルギー供給源の約30%を占めていた原子力発電所が生成した大量の高レベル放射性廃物は100万年後にも影響力を持ち続けるという。その中で私たちの子孫はいかなる生き方を選択し、私たちに対していかなる思いを抱くのだろうか。
“Remember thy Creation in the days of thy youth.”(H.D. Thoreau, “Walden: or life in the woods”, Dover Publications, inc., p.134)
①「汝の若き日に、汝の創造主を記憶するのだ。」(飯田実訳『森の生活(下)、岩波文庫』、p.70)
②“thy Creation” に関する註釈:(ここでの「創造主」は)「旧約聖書『伝導の書』第12章第1節よりの隠喩であるが、ソローの言う創造主とは、母なる自然と、それに呼応する内なる自然」を指すと考えられる。(今泉吉晴訳『ウォールデン 森の生活』、小学館、p.263)
私たちが生きる現代社会においては、多くの人々が時間の流れと競い合うように新たな発見や画期的な技術の開発に取り組み、厖大な量の新たな情報を蓄積することに価値を見出している。それに呼応して大学の教授内容や教授方法が変化していくのは当然のことであるが、そのような時代だからこそ、将来を見据えたうえで改めて「人間らしさ」が真剣に問われるべきではないだろうか。大学はそれぞれの生き方について学生が教員とともにじっくりと考えることのできる場(時空間)でもあるはずだ。

ハルキ・ムラカミを目指せ!

2012.12.28
総合政策学部准教授 大野 朝子

村上春樹の人気はすごい。今年こそノーベル文学賞受賞か!?と毎回騒がれているが、長年のファンとして、受賞スピーチを聴ける日が本当に待ち遠しい。卒業生のE君も、私と同様、熱心な読者の一人。それどころか、「第二のハルキ」も夢ではないのでは!?という、小説家の卵である。
「私、詩を書いているんです」とか「オレ、小説書いてるんスけど」という人は周りに時々いて、読ませてもらったこともあるが、いつも思う。やっぱり「読ませる」文章を書くって難しい・・・。でもE君の場合は違っていた。一番はじめに見せてもらった原稿は、正直あまりまとまっていなかったが(書きかけの長編だったせいか)、その後に書いた幾つかの短篇は明らかに才能を感じさせるものだった。安部公房を偏愛しているらしいが、彼も独自の感性の持ち主で、作品は不思議な匂いに満ちている。ゼミ中に実施した就活用心理テストのなかで「私は誰にも明かさない空想の世界をもっています」のところにマルをしていたのを、私は見逃さなかった(誓って言いますが、偶然目に入っただけです)。
「できるわ、この子」。そう思った私は、プロの目で判断してもらわねば、と一大決心(?)をして、ある一般市民向けの文学講座にE君を連れていくことにした。その講座では、作家志望者が原稿をあらかじめ提出し、プロの文芸評論家の先生と、現役の小説家(!)、そして受講生に目を通してもらい、当日コメントをいただく。ミーハーな感覚で「あの有名な作家に会える!」とお気楽に同行した私とは違い、E君は、まさに「まな板の上の鯉」状態。隣の席で緊張のあまり青ざめつつ、コメントを待っている。「この作品について、意見がある人」司会の方が呼びかけると、受講生から少しずつ手が挙がった。うれしいことに、面白かった、という感想が多く、付き添いとしてはひと安心。最後には小説家の先生がプロの視点から意見を言ってくださり、ありがたいお言葉の数々に、自分が書いたわけでもないのに、私は思わず大きくゆっくりと頷いてしまった。
E君は今も小説家を目指し、アルバイトの合間にコツコツ原稿を書いているようだ。彼のおかげで、私も貴重で楽しい体験をさせてもらった。頑張れ、E君。あの荻原浩先生も評価してくれたんだから、自信もって!

いつまでも学生気分ですいません

2012.12.21
総合政策学部准教授 立花 顕一郎

学生時代の友達に誘われて12月初旬に大学ラグビーの試合を見に行った。約20年ぶりの観戦だったので、チケットを買う方法も分からない。昔の記憶をたどってみると、チケットは大学のキャンパスでラグビー部員から直接買っていた気がするが、今はどうなのかと友達に聞いてみた。すると意外にも、コンビニのチケット販売機で簡単に買えるとのことで隔世の感を覚えた。私が大学生の頃は大学ラグビーの人気が最高潮で、当時のラグビー部員が手売りしていたチケットの枚数が国立競技場の収容人数を上回っていたという噂を聞いたことがある。それほどの人気であれば、席取り競争も当然のことながらし烈であり、雪もちらつく寒空の下、試合前日から競技場のゲート近くで先輩後輩とお酒を飲みながら暖を取り開門を待ったものだった。
そんな話も今は昔。今回は多少の混雑はあったものの、拍子抜けするほどあっけなく競技場に入場できた。スタンドには3割ほど空席があり、かつての人気カードにしては少し寂しい。いざ自分の席についてみると、自分が浦島太郎にでもなったかのように驚くことの連続である。第一に、試合開始直前に会場に流れた校歌斉唱がさわやかな女性の声である。大学のチアリーダーが録音しているとのことだ。さらに、試合中のアナウンスも女性の声である。反則プレーで試合が中断するたびに、知的な女性の声でルール解説が行われる。昔はラグビーのルールに詳しい友達に聞かなければ、試合中に起きていることが理解できず、女性には分かりにくいスポーツというイメージが強かった。ラグビーの試合における最近のこのような変化は、おそらく女性ファンを増やしたいという主催競技団体の真摯な努力の結果なのであろう。
さて、肝心の試合であるが、前半こそ母校のリードで終えたものの、後半は相手校に一気に逆転を許し、はらはらどきどきの好試合となった。会場にいる人は誰もが選手たちの一つ一つのプレーに我を忘れて見入っている。これだけは今も昔も変わらない。結局、最後は母校がアディショナル・タイムに逆転のトライを挙げ、感動また感動であった。競技場からの帰り道、友達との会話は大いに盛り上がり、お互い生きていたらまた来年応援に来ようと誓い合った。生きていたらという約束は、学生時代には冗談でしかなかったのだが、今の私たちには真剣な願いである。それこそが20年の歳月のもたらした一番大きな変化である。

藩政時代をたどる道

2012.12.14
総合政策学部准教授 馬内 里美

はじめに、今回の文章は地名が多く読みづらいのを断らなければならない。関心がある方は地図を用意して読んでいただければ、ありがたい。
大学のある仙台西北部で重要な道は土橋通りであろうと私は密かに思っている。しかし、そう思いながらも、私自身、端から端まで歩き通したのはつい最近である。というのも、狭い通りなのに交通量が多く、歩くには恐ろしく、つい避けてしまうのである。
北四番丁という地下鉄駅がある。北四番丁とは大学病院の前を通る通り、現在の国道48号線である。現在の県庁や市役所の北側の通りが北一番丁、北に向かって北九番丁まで、平行に東西に伸びる通りが続く。
土橋通りは、北三番丁通りと北八番丁通りの間を北西に伸びる通りである。南端は北三番丁との突き当たりでZ形に曲がり、広瀬川に架かる澱橋へ続く。全く地味な通りであるが、城へと繋がる道である。北端も、北八番丁で鉤形に曲がり、半子町を経て芋沢街道を通り、国見峠に至る。狭い道を、異なる路線バスが、それぞれ南端と北端でZ形に曲がりながら無理して通っている事実も、土橋通りが古くから重要な道である証左であろう。
しかし、何よりも私にとって大事だと思うのは、この通りが広瀬川と梅田川の分水線にあたることだ。かつては北三番丁から北八番丁の各通りも土橋通りが西端で、その西には広瀬川に繋がる渓谷があった。藩政時代以来の国見峠に至る道は、峠まで一つに繋がっていることも、分水線に当たることも、今では意識するのは難しい。大半が住宅街となり、新たな道が設けられたりしているからである。たとえば、東北福祉大前駅のホーム下の道は新道で、駅のホーム国見寄りにある斜めに横切る車の通ることのできない道が旧道、芋沢街道である。
国見峠で注意深く周りを見渡すと分水点であることがわかる。大学からも坂を15分ほど歩き続けると峠に着く。大学の近くでも仙台の街並みがよく見えるが、是非、一度は峠まで歩いてみてほしい。そして、そこから仙台の街並みを見てほしい。「国見」という名前を実感することができるはずである。

1976年と今

2012.12.7
総合政策学部教授 伊藤 雅之

前回のコラム(10月19日付け)で今から18年前の暑かった1994年を振り返ってみた。そこからは、近年の日本型社会システムの閉塞性が浮かび上がった。今回は、さらに18年さかのぼって、1976年における企業の動きを振り返ってみたい。
1976年は、「ほっかほっか亭」(持ち帰り弁当店)と「宅急便」(ヤマト運輸による宅配サービス)が登場した年である。
「ほっかほっか亭」1号店は、埼玉県草加市で開店した。中食のフランチャイズビジネスの草分けであり、ライフスタイルの変化ともあいまって、現在まで売り上げは順調に伸びてきている。経営主体については、2004年に㈱プレナスが㈱ほっかほっか亭を吸収合併し、店の名前を「ほっともっと」に変更するなど、紆余曲折を経てきた。共働き世帯や少人数世帯、高齢者世帯が増えるとすれば、家庭で調理をする機会は減ることから、持ち帰り弁当の販売等中食産業が伸びていく可能性は高い。
ヤマト運輸の「宅急便」を萌芽とする宅配サービスは、生活に不可欠なものとなっている。当時小倉社長が消費者物流に参入することを表明したところ、周りから大和運輸(現ヤマト運輸)もこれでおしまいかといわれたそうである。それを押し切って、運輸省(現国土交通省)の認可行政と闘いながら小口宅配ビジネスを確立してきた。我々の生活利便性がこのビジネスによってどれほど向上したかはかりしれない。インターネット利用の高度化・多様化に伴い、宅配ビジネスはますます重要となることから、その展開分野は広がっていくであろう。
中食ビジネスと小口宅配ビジネスは、36年経過しても魅力的なビジネスであり続けている。今、36年後に魅力を持ち得るビジネスは誕生しているのであろうか。もし、新ビジネス誕生に36年周期があるとすれば、読者の周辺でその芽が出ているはずである。芽を育てるのは若者であり、若者を育てるのは大学である。

九寨溝・蔵刀売りの少年(2)

2012.11.30
総合政策学部准教授 王 元

私たちの会話は九寨溝の開発から始まった。「開発以後、現地の人々は経済的収入が増えたために生活レベルが向上し、開発以前よりも幸せになったはずだ」と私は言った。当時、苦学生だった私は旅館に泊まるお金もなく、九寨溝に滞在した三日間はチベット族の民家に泊まっていた(その頃、旅行客は九寨溝の中で宿泊できたが、現在は許されていない)。そのため、私は彼らの生活状況を理解していると思っていたのだ。
しかし、彼は、「以前よりも経済的には豊かになり生活も改善されたが、幸福かといえば、必ずしもそうではない」と応じた。そこで私は、「お金が増えて生活が以前よりも良くなれば、幸せではないのか?」と尋ねた。しかし、彼は、「お金は『身体の外のもの』であり、必要なお金以外はみな余分なものであって、その余分なお金を廟に寄進するのが功徳なのだ」と答えた。
「お金が多ければその分多く寄進できる。寄進する金額が多ければ功徳が多いのだから、それも良いことではないのか」と彼に率直な疑問をぶつけてみた。すると彼は、「献金の尊さはその金額の多寡によるのではなく、心のあり方によって決まる。心がなければいくら多額の寄進をしても『功徳』にはならない」と答えた。
その時、私は一瞬言葉を失った。そのチベット族の若者の言い方が、どうしてもどこかの廟の僧侶の受け売りのように思えたのである。そこで、私は彼に、「精神的な問題ではなく、現実の生活の上で開発によって何らかの影響を受けたということはないのか?」と尋ねた。すると彼は、「ますます自由がなくなった」と答えた。

お経が入っているマニ車。資料写真。

九寨溝(苯教)のマニ車(左)とラサ(チベット仏教)のマニ車(右)は回す方向が逆である。苯教(ポン教)のマニ車は、チベット仏教のマニ車と同じように見えるが、苯教のマニ車は必ず反時計回り、チベット仏教のマニ車は時計回りである。古くから信じてきた苯教はチベット固有の宗教であり、自然崇拝や山岳信仰が中心であったが、仏教の伝来以降はその普及を恐れて仏教勢力と激しく争った。その結果、仏教に敗れてチベット高原の周辺地域に今日まで生き残った。だが、苯教とチベット仏教は競い合う間に互いに影響を与えあい、多くの面で似たもの同士になったのである。

木の声、土の歌(2)

2012.11.23
総合政策学部教授 秡川 信弘

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今年、幸運にも近所の方から畑を借りることができた。
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その土は東北福祉大駅を建設した際の残土だそうである。土の中にはたくさんの大石、小石が混じっていた。ゼミ生といっしょに石とりから始め、畝をつくり、溝を掘り、5月末にようやく大豆の種を蒔いた。「夏にはエダマメをつまみに生ビールを!」が私たちの合い言葉だった。
初めは「はたして芽が出るだろうか?」という不安さえあった。やがて芽は出そろったものの、梅雨時になると虫たちの一斉攻撃を受け始めた。だが、どういうわけか葉の裏を見ても喰われた跡しか見つからない。犯人はヨトウムシのようだった。昼間は土の中に潜み、夜中に這い出してきて大豆の葉を食い荒らす「夜盗虫」。
あるゼミ生がネットで「コーヒー滓が効くらしい」という情報を見つけた。その効果について議論を重ねていたある日、別のゼミ生が賞味期限の切れたコーヒー豆を持ってきた。
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「これ大丈夫ですかね?」
「滓が効くなら効果はあるんじゃないの」
「でも、もったいなくね」
「どうせ家では誰も飲まないし…」
案ずるより産むは易し。撒いてみたら食害が抑えられ、マメたちはすくすくと成長していった。もちろん、それがコーヒー豆の防虫効果であったという確証はない。そのビギナーズラックに気をよくしたわけでもなかろうが、話し合いの結果、畑の水やりも当番制でやることになった。そこまでは順調にいったのだが、気温の上昇とともにゼミ生たちの足が次第に畑から遠のいていった。おまけに夏休みに入る直前、私は腰を痛めて歩くのもままならない状態になってしまった。

しかし、猛暑の中、マメたちは草に埋もれ、水不足に悩まされながらも逞しく育ち、お盆を過ぎた頃、私たちはおいしいエダマメをいただくことができた。その味は、文字通り、筆舌に尽くしがたいものだった。ソローさんがこんなことを書いている。

「雑草の種は小鳥たちの穀物庫になるのだから、雑草が生い茂ることもよろこぶべきではないか?」(H.D.ソロー著、飯田実訳『森の生活 上』、岩波文庫、p.296)

心の片隅に、そんなゆとりを持ちたいと考える今日この頃である。

「ジョジョ立ち」

2012.11.16
総合政策学部教授 志賀野 桂一

やや重たいで空気で始まった後期2度目の基礎ゼミのことです。学生も私も性格や気持ちを探り合う感じでお互いの地が出せないでいたのかもしれません。雑談の中、なぜかアニメの話となり、今夏行われたジョジョ展の話題となり、皆の気持ちが一挙にはじけ大盛り上がりとなったのでした。
「ところで君たち、《ジョジョ》は好きか?」と聞くと、それぞれのジョジョ観を次々と語り始めたのです。その詳しいことと言ったらありません。「ジョジョの名言」や人間賛歌の物語、絵のスタイルなど。なかでも「僕はあの《ジョジョ立ち》に魅かれる、センセイ知ってますか?」ときた。「何…っ、その《ジョジョ立ち》って?」、「ジョジョには主人公の独特の立ち姿がある」という、そう説明されると確かにS字型の細身のイラストは荒木スタイルの特徴のように見える。調べてみると、荒木はクリント・イーストウッドに憧れその映画ポスターにも影響されたとあります。


※《ジョジョ》とはいうまでもなく仙台出身の人気マンガ作家荒木飛呂彦の代表作『ジョジョの奇妙な冒険』(1987年から「週間少年ジャンプ」に連載、106巻7500万部以上売り上げたといわれる)のことです。

仙台が「S市杜王町」など数多く作品の舞台となっていることから、第一回目の荒木飛呂彦原画展がせんだいメディアテークで行われ、満員の入場者と空前の売り上げとなりました。主催者の予想を超えるこうしたブームは、ゼミ生の説明では「荒木飛呂彦のアニメは年代の幅が広いので当然ですね。」と冷静な分析。私が多くを学ぶ時間でした。
最後にU君が研究室にあった荒木飛呂彦の複製原画をみて「これ、写メしてもいいですか?」というので、私が「いいよ、どうぞ」と喜んで応じたのは当然ですが、本当はゼミ生の全員に「アニメの知識教えてくれてありがとう!」と言いたかったのです。全国各地でアニメのキャラクターを使った商品開発、観光振興など、まちおこしの事例を集めて講義に使おうと思いたったのでした。

返信:「あなたは誰ですか?」――敬語のゆくえ

2012.11.9
総合政策学部准教授 飯笹 佐代子

言葉の意味は時とともに変化することが少なくない。たとえば、「にやける」という語。先日発表された文化庁による国語世論調査によると、本来は「なよなよする」という意味ということであるが、今では「薄笑い」と解釈している人が8割近くにも達するという(私もこの多数派に入る)。同様に、「失笑」や「ぶぜん」などの意味も、意外な変化を遂げていることを知って興味深く思った(関心のある方は、文末を参照)。意味がゆらぐのは言葉が生きているからに他ならない。
そうならば、敬語だってゆらぐのは当然、と思うべきなのだろうか。というのも、特に最近、学生から届く、敬語なしのシンプルなメールにギョッとさせられることが多いからだ。依頼の内容ながら、お友達感覚、はたまた、ほとんど「命令」口調に近いものまである。しかも、そういうメールに限って、宛名も差出人名もなかったりする。相互に登録された携帯メールならまだしも、こちらはパソコンで受信するので、アドレス帳から誰のメールか特定しなければならない。
他方で、もちろん、申し分のないきちんとした敬語で記されたメールを受け取り、すがすがしい気分になることも決して少なくない。こういう文章を書ける学生は、きっと就活もうまくいき、社会人として立派に羽ばたいていけるに違いない。
時代とともに、いずれは今の敬語も変容の波に洗われていくであろう。とはいえ、現在ではまだまだ、企業、そして「社会」に受け入れてもらうためには敬語のマナーは絶対不可欠である。そのことに気づいてもらうため、今後は心を鬼にして、敬語抜きや名無しのメールに対しては、「あなたは誰ですか?」と返信すべきではないかと思い始めたこの頃である。それが何より本人のためになるのなら。
(「嘲笑」(こらえきれずに噴き出す)は、今では6割以上の人が「笑えないほどあきれる」の意味で、また「ぶぜん」(ぼんやり)は、7割以上が「立腹」の意味で使っているという。)

人はどこを歩いて道が出来たか

2012.11.2
総合政策学部准教授 馬内 里美

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僕の前に道はない。
僕の後ろに道は出来る。
これは、高村光太郎の詩「道程」の冒頭である。高村光太郎は東北にゆかりのある詩人である。
ところで、人が歩き、踏み固められて道ができるのだが、昔の人はどこを歩いていたのだろう。旧街道を歩く紀行番組をテレビで見ると、車の往来の激しい国道もあれば、宿場町の面影を残す落ち着いた佇まいの道もある。さらに現代社会から取り残されたような山道もある。なぜ廃れてしまったのか。むしろ、そもそもそんなところをなぜ昔の人は通っていたのか、と不思議に思うのではないだろうか。
昔の面影が残る道はバイパスができることで旧道となり、時代の変化をあまり受けないまま残される。山に橋やトンネルができると延々と迂回する山道はほとんど不要になる。また、なぜ昔はそんなところを、という疑問にも答えがある。昔の人々は地形の制約を受けながら、通行や道普請に負担の少ない場所を選んで道を作ったのである。橋やトンネルに代表される近代化とは自然の制約を克服することであり、私たちは大いにその恩恵を被っている。しかし、近代化以前の社会では、人々は自然に適応し、その中で最善を選んでいったのであろう。
東日本大震災により大きな被害を受けた宮城県南部の沿岸部では、津波による浸水が江戸時代の街道と宿場町の手前で止まっていたという。街道は山裾を沿うように通っている。過去の津波の浸水域を避けて整備されたのだろうか。それとも、津波とは関係なく、山裾に人々が定住し始め、それに沿って道が作られたのだろうか。あるいは、山裾が海岸線からいちばん遠い平地であることから、結果として津波を免れることができたのか。いずれにしても、自然に適応しながら道は作られた。それは自然災害を避けるための最善策でもあった。
人の前には道がなかった。しかし、人は目の前の自然を見つめ、そこに横たわっている未踏の道を試行錯誤しながらも見出し、歩き続けて、道が出来たのかもしれない。今日の私達にはそうした目を持つことができるのか。

友達ほどありがたいものはない

2012.10.26
総合政策学部准教授 立花 顕一郎

8月に大学院時代の友達とイタリアに出かけた時のことである。ミラノに知り合いの日本人女性がいるので彼女の案内でミラノ市街を観光しようということになった。さすがに長く現地に住んでいる人だけあって、路面電車を上手に乗り継いでドゥオーモ(ミラノ大聖堂)、スカラ座、スフォルツェスコ城などを効率よく案内してくれた。
その日は気温が40℃近くあり、「イタリアでも異常気象が続いる」という説明に思わずうなずいた。案内役を引き受けてくれた女性は50代後半らしく、20歳前後の息子さんが一緒だった。夕方、ミラノ中央駅で帰りの電車を待っている間、息子さんが意外な話をし始めた。「母は数年前に大病を患って、最近はあまり外出していなかったのです。それで、今回の案内役を無事に勤めるために数日前からウォーキングの練習をしていたのですよ。」
その言葉に、私と友達は思わず目頭が熱くなった。
二人に見送られて電車に乗り込んでから、私はふとアメリカ人の友達、シャーロンのことを思い出していた。数年前、ゼミの卒業生と一緒にミシガン州にある彼女の家を訪れた際、3人でシカゴに遊びに行こうということになった。その日は朝から雨が降っていて、駅前の駐車場に彼女の車をおいて電車でシカゴに向かったのだった。自然史博物館を見たり、ずっと行きたかったスペアリブの店に行ったりと楽しい時はあっという間に過ぎ、帰りの電車がシャーロンの住む町に間もなく到着するという時、私は駅前の駐車場に彼女の車を見つけた。
それを告げると彼女は飛び上がらんばかりに喜んだ。「私は車を半ばあきらめていたのよ」。「駅前は治安が悪くて、車が盗まれることは珍しくないんだけど、土砂降りの雨が私の車を泥棒から守ってくれたのね」。 シャーロンが私のために車を失う覚悟までしてシカゴに同行してくれたことを私はうかつにもその時初めて知った。
友達とは本当にありがたいものだ。世界中のどこにいても心が通じ合う。この世の中で友達ほどありがたいものはない。

18年前の夏-1994年と2012年-

2012.10.19
総合政策学部教授 伊藤 雅之

仙台管区気象台によると、仙台では真夏日が18日間以上連続し、1926年の観測開始以来の最長であった1994年(7月31日~8月16日)の17日間という記録が18年ぶりに塗り替えられたという。そこで、今から18年前、現在の高校3年生が生まれた年、その暑かった夏のあった1年とはいったいどのような時代だったのかをふり返ってみた。
1994年は、今でも使われている「価格破壊」や「就職氷河期」という言葉が生まれた年である。
「価格破壊」とは消費者物価の下落を意味する。今では「円高」はすっかり定着したが、1994年6月、ニューヨーク市場で史上初めて1ドル100円割れとなった。円高が続きながら物価は下がらない。消費者ニーズに応える「価格破壊」を断行したのはダイエーであった。オープン価格制度を導入するなどして、複雑な商品流通システムの改革に切り込んだ。しかし、そのダイエーも2004年には産業再生法の適用を受けるにいたり、今ではイオンやイトーヨーカドーがプライベートブランド戦略によって価格破壊を引き継いでいる。
「就職氷河期」は「超」という強調語がついて、今でも頻繁にマスメディアに登場している。就職環境の悪化は産業構造の問題であり、一過性の現象ではなく長期的に続くという観点から「氷河期」という用語が使われた。暑い中で「寒い」表現がウケたのである。就職難は当時の大きな社会問題となったが、その後、紆余曲折を経て今なお続いている。
変化の激しい現代にあって18年もの間、「価格破壊」と「氷河期」という2つの言葉が登場し続けていることが日本型社会システムの閉塞性を実証しているのかもしれない。

積極的に迷ってください!

2012.10.12
総合政策学部教授 志賀野 桂一

先日、ゼミ生の研修旅行の引率をして東京都三鷹市にある「ジブリの森美術館」に行ってきた。私は現代美術館として注目を集める六本木地区の国立新美術館などを薦めたのだが、宮崎駿が館主の「ジブリの森」に行きたいという学生たちの意思は固かった。
この美術館、いくつかユニークな運営方法で知られる。まず完全予約制、しかも1月前からの予約となっている。予定を組むことからハードルが高いのである。
11名無事に三鷹駅からの「猫バス」ならぬコミュニティバスに乗り込む。井の頭公園の外縁部に位置する緑の樹木に囲まれたエリアだ。美術館は蔦や木々に覆われ、まるでフンデルトヴァッサーの建築を彷彿とさせる。内部空間も「コクリコ坂から」に出てくるクラブ棟に似ている。映画やアニメーションの仕組みの展示、猫バスの部屋、土星座という短編映画を上映する小さな映画館もある。野外のパティオにはアニメ映画の1シーンそのもののロボット兵やラピュタ王家の紋章と黒い石もあった。
まるで迷路のように様々なモニュメントが無造作に並べられているが、順路表示は一切見当たらない。「それ自体が一本の映画」という宮崎監督の考え方が貫かれているのである。案内のお姉さんも「決められた順路はありません、どうぞ《迷子》になってください、そしてご自分が主人公になって行き先を決めて下さい!」と説明してくれる。なんとも素敵なセリフではないか。
運営もユニークで「負担附き寄付」という方法で三鷹市の「公の施設」となっているが、運営体制は限りなく民営に近い。都市型公共施設の新たなモデルといえるかもしれない。
2時間余り見学した後、「センセイ!」と女子が深刻そうな顔でやって来る。「どうした?」と私、「ブルーベリーのソフトを食べたら舌がこんな色に・・・」。
この日、この時、ジブリの森の中で学生たちはそれぞれどんな主人公を演じ、何を感じ、何を学んだのだろうか? 確認はあとからしっかりさせてもらいましょう。楽しい中にも、学ぶことの多い研修旅行でした。

奇跡の旅(1) 九寨溝・蔵刀売りの少年

2012.10.5
総合政策学部准教授 王 元

1987年秋に大学院を卒業する一年前、私は一ヶ月半に及ぶ旅をした。最初に行ったのは四川省九寨溝。
当時は開放されて間もない頃で旅行客はまだ少なく、美しい風景に陶酔し、帰るのを忘れてしまいそうなほどだった。最終日、友人と別れて一人で蘆葦海の近くにあるその夏にできた季節湖に行った。そこで小舟を借り、湖の中心で留まった。そして仰向けになり、ただ青天白雲を眺めながら悠々としていた。日がな一日、一人で湖に漂い、時間を過ごしたのである。
その後、再会した友人はこのように一日を浪費した私を笑った。「もっと多くの景色を見らればよかったのに」と。しかし、今から考えてみても、その時の経験は非常に価値があったと思う。九寨溝は1992年、世界遺産(自然遺産)に登録され、現在は観光客でごった返している。あのとき、私がしたように舟に乗り湖を丸一日一人占めするなんてことは、今後は誰にもできないだろう。なんと贅沢な経験をしたのだろう!
そして、九寨溝を離れなければならない日が来て、帰りのバスを待っていたその時、今でも忘れ難いある出会いがあった。
蔵刀(チベット族の刃物)を持ったチベット族の若者がひとり退屈そうに大きな木の下に座って、その蔵刀を取り出しては遊んでいた。多くの旅行客はみな、現地のチベット族の人からそのような蔵刀を買って帰り、旅行の記念にしていた。私もその蔵刀を買おうと思い、歩み寄って彼と雑談したのだが、彼の漢語(中国語)は驚くほど標準的だったのだ。
辺境の地に暮らす少数民族の彼がそんなにも上手に漢語を話せるということが私には信じられないことだった。その時の出会いが、変化しつつある中国の現実に対する私の目を開かせてくれる貴重な経験となったのである。

木の声、土の歌(1)

2012.9.28
総合政策学部教授 秡川 信弘

私たちの学部の教育目標に「豊かな教養と人間性」という表現がある。そこに、「器(うつわ)の大きな人間に育ってほしい」という願いが込められていることを理解してほしい。
西岡 常一(にしおか つねかず)さんという方をご存知だろうか。法隆寺の修復や薬師寺の復興を手がけた宮大工の棟梁である。西岡さんは祖父、父と二代続く棟梁の家に生まれ、将来は家業を継ぐことが運命づけられていた。ところが、小学校を出てからの進学先について祖父と父の意見が対立する。父親は工業学校に入れようとしたが、祖父はそれに反対して農学校に入れようとしたのである。毎晩のように二人の間で言い争いが続き、西岡少年は勉強にやる気をなくし、成績は急降下してしまう。
祖父は主張を曲げず、結局、彼は農学校にいかされることになる。将来、大工になるはずの西岡少年は、毎日、ナスやカボチャを作り、林業や土壌学の勉強を習うことになった。それでも、次第にナスやカボチャをならせることに興味を覚え、農学校の三年間は一生懸命に作物を育て、樹木や土壌についても真剣に学んだ。卒業時の成績は百人中八番だったという。
後年、西岡さんは棟梁となり、その時、初めて農学校の三年間が棟梁になるために通らなければならない道であったことを知ることになる。その西岡さんがこう書いている。
「(薬師寺の用材に使う)ヒノキの植わっている山には土壌なんてありませんのや。岩ばっかりや。(中略)こういう条件だからこそ、二千年もの木が育つんですな。人間も同じですな。」(西岡常一『木に学べ-法隆寺・薬師寺の美-』、小学館、1988年、p.17)
厳しい風雪に耐え、長い年月をかけて苗木が立派な巨木に育つように、人が大きな器に育つにも長い時間がかかるのだろう。成長をじっくりと見守り続けたいものである。

Jumping over Chesterton’s Fence with Slow Thinking

2012.9.21
総合政策学部講師 ジム・スマイリ

Have you ever seen a notice, rule, or direction that simply did not make any sense? What did you do? Perhaps you ignored it, perhaps you followed it, or perhaps you wanted to destroy it. ‘Chesterton’s Fence’ is the story of a man who saw a fence in the middle of road. He thought–or rather, felt–that it should not be there. So he demanded a town councillor to let him remove it. The councillor replied, “You can remove it only when you can tell me why the fence is there!”
This story highlights two ways of thinking: the man’s ‘fast thinking’ and the councillor’s ‘slow thinking’. The man had an instant feeling that the fence was wrong, that it should not be there. Instincts, or emotional reactions, are felt by us very quickly. Back in our evolutionary times, the ability to react quickly to threats from all around has kept us alive. Humans have become very skilled at fast thinking. However, it is not to be trusted. Fast thinking is usually weak or shallow. The man’s reaction, based on fast thinking, led him to believe that the fence should not be there. In his outrage, he made the demand to the councillor based only on his gut reaction. He didn’t stop to think about why the fence is there.
Times have changed, however, and we live in a vast cultural web of interrelationships that often have subtle and far-reaching meanings. Many of these relationships are invisible to us at a glance. Especially in this Internet age where instant comments, reactions and sound-bites are everywhere, it is all too easy to ignore this web and to rely only on our fast thinking skills. The councillor’s answer asked the man to think in depth about why the fence was put there in the first place: to make the man do slow thinking. Behind every rule, law, or regulation, there is usually a good reason. Before we try to change, we need to understand those reasons critically and decide if the present situation is so different to necessitate a change of the rule. We now live in a world that needs good clear slow thinking. The complexities of modern life are so deep that we can no longer rely on our instincts. We need to, therefore, jump over Chesterton’s Fence by learning how to think slowly and deeply.

教室の“鎮め”方

2012.9.14
総合政策学部准教授 永澤 雄治

静かな教室で、熱心に耳を傾ける学生を相手に授業を行う、ということは見果てぬ夢なのだろうか。
他大学の教員との話題の一つに、教室での私語対策がある。これは広島の大学で教えている友人から聞いた話だが、彼も若い頃は、怒鳴ったり、時には教卓に正拳突きをしたこともあったそうだ。尾木ママこと教育評論家の尾木直樹先生でさえ、中学校で教えていた頃、態度の悪い男子生徒の胸倉をつかんだ事があったとか・・・。
私の友人は、職場の同僚から教わったある方法で教室を静めていた。それは、「教室が静かになるまで一言も話さない」というどこかで聞いたことがあるやり方だった。肝心なのは、初回の授業で時間がどれほどかかろうとも、この方式をやり通すことだそうだ。そうすると学生達も、この教員はこんなやり方で授業を進めるのか、と了解してくれるそうだ。とはいえ、その後も私語でうるさくなる時があるらしいが、その度に授業を止めて、話をしている学生達の方をじっと見ると、周りの学生達も私語グループを見るので、自然と喋りにくい雰囲気が教室の中に生まれるそうである。
その話を聞いて私も早速実践しようとした。教室に入ると、当然のように学生達は楽しそうにお喋りをしている。学生達を静かに見つめつつ、何も話さず、ひたすらじ~っと待つ。5分くらい経ってもまだ静まらない。ひたすら待つ。まだ静まらない。・・・・ついに我慢できず、「静かに!」と言ってしまう。
というわけで、この方式を実践できない状態が続いていた。春や秋の授業開始時期には途中まで試みるものの、上記のような挫折を繰り返していた。自分なりに実践できるようになったのは、ここ3年くらいのことである。静まるまで待てるようになったのだ。特に理由があるわけではないが、しいていえば年齢を重ねることでこちらも忍耐力がついて来たということだろうか。

就活は恋愛と同じ

2012.9.7
総合政策学部准教授 増井 三千代

 「座布団1枚!」と、思わず声を掛けたくなった。OBのT君が同僚のゼミで就活体験を明かしてくれた時、「恋愛と一緒だよ」と切り出したのだそうだ。同僚によれば、いつもは斜に構えているゼミ生たちが、目を輝かせてT君の話に耳を傾けた。特に、「本気で好きになった相手に告白もできないなんて悲しいよね……」という言葉は、未だ内定を獲得していない4年生の沈鬱な心に強く響いたらしい。
つい最近、ニュースが伝えていたが、この春卒業した大学生の就職率は約6割にとどまり、安定的な雇用に就けなかった卒業生が約2割にのぼったという。つまり、5人に1人は正社員になれていないことになる。かつては、大卒というだけで簡単に就職できた時代もあった。だが今は、何十枚もラブレターを書いてエントリーしても、口頭で思いを告げる機会すら与えられないことが珍しくない。
もちろん、この不安定な雇用状況は学生だけの責任ではない。だが、乗り切るしか道はない。就活は人生を左右する。学生には早いうちから自分自身と真剣に向き合い、進路を見定めてほしい。残念ながら、果敢に厳しい就活に立ち向かう学生がいる一方で、甘えが過ぎる向きが少なくない。「先生、行きたい会社が見つかりません」と泣きついてきたりもする。
あなたのカレシを私が見つけるの? 大学の教員はお見合いの世話はしませんよ! その代り、意中の相手の心をつかむラブレターの添削や告白のシミュレーションなら、喜んで付き合いますよ。
さて、T君の体験談に背中を押され、熱心に就活に取り組んでいるゼミ生が、同僚にぽつりと言ったそうだ。「ふられっぱなしのオレのつらさが先生に分かりますか?」
就活の失敗を苦にして……といった暗い事件をも耳にする昨今、学生の切実な訴えにドキッとさせられ、返答に困ることがある。だが、同僚はすかさずこう励ましたそうだ。
「暑い夏が過ぎた秋こそ、恋の季節だよ。また一緒に頑張ろう」

教科書の教科書

2012.8.31
総合政策学部教授 李 聲杓

頭痛がまた襲ってきた。理解できないものを何としてでも理解しようと無理をするせいだ。どうしてこんなに難しいのだろう――。法学を学び始めた大学1年生、ほろ苦くも悩み多き日々のことだ。授業が難しくて、ついていけない。焦り、いら立ち、あれこれと雑誌や参考書を読み散らしたが、解決しない。打つ手がないまま悩みに悩み、ある日、ふと教科書を読んでみたら、あれれっ、分かるではないか。授業も分かる。教科書を予習して講義に臨むと、景色が変わった。法学は少しも難解ではない、と思えるようになった。それもそのはず、教授は教科書に沿って説明してくれるのだから、予習での疑問は次々に氷解していく。ノートをとるのも楽だ。日をおかずして悩みの種だった授業が面白くなったのには、自分でも驚いた。教科書こそ原点という当たり前のことに気づくまでに時間を要したが、それ以来、教科書を信奉するようになった。
時は流れ、教科書を選定する立場にいる。もともと大切にしてきた教科書、しかも自分が受け持つ講座の教科書を選ぶのだから、さぞかし楽しい作業になるだろうと思っていたら大間違い。これがなんとも難しい。大学では教科書無用の講義も少なくないようだが、専門用語が多い法律科目に教科書は欠かせない。大学設置基準では、教室内での1時間の講義に対して教室外での2時間の準備のための学修が必要とされており、15時間の授業で1単位とすることになっている。この規程上も学生の自修は必須条件だ。それなのに教科書なしでは、法学の自修はおぼつくまい。
それなのに、教科書の選定は安直にはいかない。先輩のアドバイスや同僚の意見を参考に、それぞれの分野で定評のあるものを実際に手にとり、目次から体系や分量、情報の質などを読み比べて品定めする。入門書もあれば、専門書もある。一長一短があって、希望にピタリと一致するものはなかなか見つからない。
いつも悩まされるのが、入門書と専門書のどちらにするかの選択だ。学生にしてみれば分かりやすく、分量も少ない入門書が好ましいだろう。しかし、専門科目を担当する教師からすれば、入門的な知識で事足れりとしてよいのか、と考えてしまう。入門的な教科書に合わせたレベルの講義では、資格試験や国家試験などに通用するとは言い難い。3年生、4年生は間もなく卒業するのに、入門的な知識を身に着けただけでよいのか。専門科目とは、どのレベルまで踏み込むべきなのか、考えれば考えるほど悩みが深まっていく。
どこかに教科書の選び方を教えてくれる“教科書の教科書”はないものか。

メダリストへのおせっかい

2012.8.24
総合政策学部准教授 矢口 和宏

この夏の大きなイベントとしてはロンドンオリンピックがあげられる。日本選手団は過去最高の38個のメダルを獲得する活躍で、連日連夜のテレビ観戦によって寝不足になってしまった人は多いであろう。また、20日には東京の銀座でメダリスト達が凱旋パレードを行ない、沿道には約50万人(主催者発表)の人々が出迎えたことは記憶に新しい。
これだけメダルを獲得すればメダリストにもいろいろな人がいる。私の職業柄どうしても気になるのは、現役の大学生や高校生がいるのかということ、そして彼ら、彼女らは、普段どのような学生生活をおくっているのだろうかということである。メダリストだって芸能人ではないのだから、もとは身近な存在にちがいないからだ。
その点で私が思い出すのは、1992年のバルセロナオリンピックにおいて当時中学2年生で金メダルを獲得した岩崎恭子さんである。オリンピック終了後の彼女の生活は激変し、まわりからの妬みや嫉妬も相当あったという。中学2年生というあまりにも若い年齢での出来事がそれらを助長させたことも事実であろう。当時私は、彼女は大学生の時に金メダルを獲得できれば良かったのにと思ったものである。大学生であれば中学生よりかは注目が薄らぎ、もっと自由な学生生活がおくれたであろうと思ったからだ。
岩崎恭子さんも活躍した水泳競技では、今回のオリンピックでは高校3年生の萩野公介選手のほか、複数の大学生がメダリストになった。彼ら、彼女らの生活は岩崎さんほどではないだろうが、これまでとは違ったものになるだろう。特に日本では、メダリストは連日テレビに呼ばれつづけ、良い悪いは別にして、芸能人のようにしてしまう悪しき習慣(?)がある。これに負けず、彼ら、彼女らには学生であることを忘れず、しっかりとした学生生活を過ごしてほしいと思うのは、心身ともに充実したメダリストには余計な忠告で、単なる私のおせっかいなのだろうか。

“積ん読”も大事な読書

2012.8.17
総合政策学部教授 吉水 弘行

新学期が始まって間もない日のことだ。わが三年ゼミのゼミ生のひとりが、いっぱいに膨らんだ布袋を重そうに肩にさげて研究室に顔をだした。「先生、重くて家に持って帰れません。少し置いてっていいですか」といって、分厚い専門書を何冊もとりだす。
教科書販売の日だった。私自身は担当している科目で教科書を指定したことがない。講義はすべて私の40年近くの実践経験をベースにしており、市販の教科書の範疇に収まらないのを特色としている。と同時にアルバイトで生活費を稼いでいる学生たちに、なるべく余計な資金負担をかけたくないことも理由のひとつであった。だが、中には、情け容赦なく高価な本を指定する教師もいる。
六法全書など一万円以上もする書物をみて、私はつい不謹慎なことを口にだした。「買うだけ買って、積んでおくだけじゃ勿体ないぞ」
すると、彼はいかにも不同意という顔で反論する。「いや、俺はたとえ読まなくてもいいと思うんです。だってこんな硬い本買うのは人生で今しかないと思うから」
それを聞いて、私は自分の考えの浅はかさに気づき、恥ずかしくなった。なぜなら自分自身が、かって学生のときなけなしの金をはたいて下宿の壁一面に買い集めた本のうち、どれだけきちんと読んだのかと思い至ったからだ。
その時読まなかった本が何十年も後になって気になり、読んでみると大事な発見をすることがよくあった。それも買っておいたからこそ、開く機会に巡り合えたのだ。
読書には、精読、乱読、多読、熟読、速読といろいろあるが、「積ん読」も大事な読書法のひとつであることに気づいた。

嗚呼、先生!

2012.8.10
総合政策学部教授 三木 賢治

先生という尊称には、胡散臭さがつきまとう。国会議員の先生然り、医者や弁護士然り。刑務所では受刑者が看守を先生と呼ぶ。かつてのハンセン病療養所でも、職員は患者が先生と言わないと返事をしなかった。新聞社の論説委員も、霞が関では「先生、先生」と持ち上げられる。官僚が肚の底であざ笑っているのが見え見えなのに、その気になる向きがいるから情けない。『先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし』とは、けだし名言である。
本家本元の学校の先生は、と言えば、もちろん怪しい。痴漢にセクハラ、盗撮に児童買春、万引きに下着泥……。連日のように、教師の不祥事が明るみに出る。だから、中学の教師が、いじめに遭って自殺した生徒を見殺しにしていたと聞いても、少しも驚かない。
先生は半世紀も前から悪かった。私が通った小学校の教頭は飼育係を押し付けておきながら、飼っていたニワトリが卵を産まなくなると、鶏肉店に売り飛ばした。「命の大切さを学ぶためでなかったのか」と詰ると、これで勘弁してくれ、と十姉妹のつがいを買ってきて差し出した。その騒動にも知らんふりを決め込んでいた担任の教師は、授業中、ある男児に難癖をつけては、体罰として立たせた。あまりひどいので皆で語らい、そのたびに全員で立ち上がって改めさせた。
中学の校長は話が長く、朝礼で1時間も喋り続けた。暑さの日、熱射病で20人以上の生徒が倒れても話を止めなかったので、校長室に抗議に行くと、「精神がたるんでいるせいだ」と取り合おうとしない。「頑張って聞くほどの話じゃない」と言い返したら、顔を真っ赤にして怒った、怒った。……振り返れば、反面教師に教えられる日々ではあった。
辞書を引くと、先生には①先に生まれた人、②師として教える人、③やっこさん、大将と同様、からかうように他人を侮って言う語――の3つの意味がある。①と③が何と多いことよ。教員もどきの身としては、②に近づくべく精進する所存だが、学生諸君には、尊称に込められた根拠のない権威に惑わされることなく、①②③のどれに相当するか、見定める目を養ってほしいと切に思う。

10,000 Hours

2012.8.3
総合政策学部講師 ジム・スマイリ

Many new students at TBGU feel overwhelmed by the sheer number of new courses, the amazing array of books to read on new subjects and the wonderful depth of knowledge and experience held by the professors. Students feel excited about the new avenues opening up to them and the new possibilities for their future lives. This is, after all, why students choose to study at a university like TBGU.
At the same time, however, students can feel pressurised. The books and the teachers are models of what they could become, yet the difference in ability between them and the models is immense. How can a student become as good as a professor? It’s simply unimaginable for most students.
Becoming an expert in any field doesn’t happen overnight. Malcolm Gladwell wrote a book called “The Story of Success”, in which he describes how to be successful in any field. Gladwell coined a new phrase, “The 10,000-hour rule”. In all advanced topics, from sports to music to business to science to chess, humans need to spend 10,000 hours in study and practice to become expert. There are no exceptions, Gladwell shows. Even if someone appears to be a genius, that person will still have studied or practiced for 10,000 hours. We can all be expert, according to Gladwell.
Students should take great reassurance in this. Whenever they see a highly articulate and knowledgeable professor, they can think that they, too, can be expert. The professor has accumulated far more than their 10,000 hours. All students at TBGU can be expert if they simply put in the study time. But 10,000 hours means roughly 3-hours-per day for 10 years. The four years at TBGU can give a great start in their life-long learning; there’s no need to be scared of greatness, students can start their path towards greatness here.

ジャン・ピエール君のこと

2012.7.27
総合政策学部准教授 永澤 雄治

道場には、海外からの留学生も練習生として参加することがある。これは、私が大阪に居た頃に出会ったフランス人留学生の話である。彼の名は、ジャン・ピエール・カルナヴァルといって、日本語の感覚としては、「お祭り太郎」のような名前を持つ人であった。当時、私が所属していた東洋拳法は、少林寺拳法から分かれたマイナーな流派であり、12オンスのグラブをつけ、面突きはあったものの、蹴りは前蹴りと中段のみという少し中途半端なフルコンタクト・ルールで行われていた。
母国にいた時から格闘技に関心を持っていたピエール君は、流派の宣伝チラシを見て道場にやって来たのだった。彼の体格は、身長こそ高いものの、痩せ型で、足が長すぎて腰が座らず、顔面から突き出した高い鼻がいかにも格闘技には不向きのように見えた。しかし格闘技は面白いもので、細身でも関節がしなやかに回り、驚くほどバネのある動きをする選手もいるので、彼もそのようなタイプかと思って見ていた。しかしこのピエール君は、腕立ても満足にできず、乱取りの動きも可能性を感じさせてはくれなかった。
とはいえ彼は、明るい性格の持ち主だった。あれは12月の忘年会の時期だったか、岸和田の道場で稽古を終えた後、周辺の酒場で打ち上げをやった時のことだった。大阪ミナミのおばちゃんが仕切るカウンターだけのディープなお店で、我々は楽しく飲み食いをしていた。ピエール君も、歌ったり、踊ったりして楽しそうだった。宴も終わり、帰る方向が一緒だったため、ピエール君と私は同じ電車で帰宅の途についた。 “アイ・フォロー・ユー”と私に向って叫び、電車の中でも陽気にはしゃいでいたピエール君だったが、その内、気分が悪いと言い始めた。すぐに電車を降り、タクシーで私のアパートに向う途中、ピエール君には吐き気が訪れ、タクシーを止める間もなく、・・してしまったのだ。その夜は私の部屋に泊め、翌朝、ぐっすり寝た彼に気分はどうだと聞くと、“ファイン”と満面の笑みで応えていた。彼の・・は、私が3回払いのローンを組んで買ったばかりのコートにも付着していたのだが、そのことには触れずに、彼を最寄りの駅まで送った。そんなピエール君も、1年の留学を終える頃には、彼女に見送られ大阪伊丹空港を後にしたのだった。

Engrish ??

2012.7.20
総合政策学部准教授 増井 三千代

「Happy more. Your shiny future.(もっとハッピーに!あなたのつやつやの未来)」、「Happy Fright. Have a nice trip! (幸せな恐怖。良い旅行を!)」、「I will go to the sea to encounter the sun and a gull.(私は太陽と一羽のカモメに遭遇するために海辺に行く)」――。
これは、Tシャツにプリントされていた英文である。7月中旬にもなると、キャンパス内のあちらこちらでTシャツ姿の学生をよく見かけるわけだが、今どきの大学生の着こなしに感心しながらも、職業柄、つい英文チェックをしてしまう。そして、大抵の場合、「うーん」と首をかしげてしまうのである。
ちょっとしたスペルミスや語句の誤用はご愛嬌だとしても、「そのTシャツを着て海外に行かないで!」と、学生に訴えたくなるような気恥しい英語に出くわすこともよくある。英語がプリントされているだけでファッション性が高まる、という感覚には共感できるが、意味を理解せずに、安易にそのようなTシャツを着用するのはどうだろうか。
だが、これは日本に限ったことではなくて、同じような現象が海外でも起きているのである。海外のスポーツ選手にはタトゥー愛好者が多いが、最近、漢字のタトゥーを入れる選手が増えているという。理由は、漢字はcool (=かっこいい)だからだ。
実際に、テレビで見たことがあるが、「愛」、「闘魂」、「心」は正しい漢字であるし、なぜこの漢字を選んだのかという意図も理解できる。だが、「牛」、「あな」、「力恒雷神氏心和」、「恐れる」などは意味不明で、日本人からしてみれば滑稽にすぎない。互いに違う文字に憧れを持ち、ファッションに取り入れることは大いに結構である。だが、お互いの文化を尊重するためにも、正しい使用を心がけるべきではないだろうか。
ということで、私は英語教員になってからというもの、洋服に書かれた‘Engrish’が気にかかり、気づけば無地や柄物など、いつも同じようなデザインの服ばかり購入している。おしゃれが下手なのは‘Engrish’のせいなのか。それとも、ファッションセンスの無さなのか……。

板書の悩み

2012.7.13
総合政策学部教授 李 聲杓

文豪の夏目漱石が旧制一高(今の東大教養学部)で教鞭をとっていた頃の話だ。講義中、ノートもとらず、片手を懐に入れている学生がいる。一再に尽きないので、横着だと注意した。すると、本人は困ったような顔でうつむき、周りの学生はにやにやする。はて、とよくよく見れば、件の学生は隻腕ではないか。漱石は内心、しまったと思いながらも、こう言った。「僕は無い知恵を絞って講義をしている。君も無い腕を出してくれてもよいではないか」
何かの本で読んだエピソードだが、漱石の時代は、教師は用意した講義ノートをひたすら黒板に書き出し、学生はそれを懸命にノートに写すのが一般的な大学の講義だったらしい。教科書も満足になく、コピーなどは及びもよらなかったので、教える側も教わる側も板書に頼らざるを得なかった。今は印刷や出版が簡便になり、コピー機も普及している。パソコンやインターネットを通じて大量の情報を即座に学生へと提供することもできる。図表や画像が欠かせない医学や理工学の分野では、パワーポイントがなくてはならない必須アイテムになっている。
しかし、時代がどんなに変わっても変わらないのは、学生が上手にノートをとっているかどうかが気にかかる教師の心情である。とくに法学を専門とする教員にとっては、難解な法律用語や法解釈の微妙な違いなどの説明を求められるだけに、板書は悩みのタネだ。そもそも法学の講義に板書はそぐわないのではないか、とさえ思う。法律用語の字解きや判例・事例の図表はともかく、黒板で要領よくポイントを書き示すのは難しい。
それでも、板書には不思議な力がある。どんなに教室がざわついていても、黒板にチョークを走らせると、なぜか、凪いだように静まる。私は黒板の左端から右へと移動しながら書き進めるが、なるべく直ぐには消さないようにしている。学生が写し取る時間を考えるだけでなく、板書した事項についての質問が出た場合に備えるためだ。使い慣れていない教室では、後方まで歩きながら黒板に書いた内容を説明する。最後部からでも読み取れるかどうかを確認するためもあるが、学生の中に入っていくことで緊張感を増幅する効果も期待でき、一石二鳥となる。
最たる悩みは、私の悪筆だ。無い知恵を絞っても、筆遣いはいっこうに上達しない。

ハーフタイムの効用

2012.7.6
総合政策学部准教授 矢口 和宏

ここ数年、高校生への模擬講義を年に4、5回は行なっている。高校に出向いて行なうこともあれば、高校による大学見学の一環として、本学の校舎で行なうこともある。最近では「プロスポーツの経済学」というタイトルで模擬講義を行なっているが、その内容とは別に高校生に必ず話すことがある。それは「大学は高校とは違って90分授業です」ということだ。そう、大学の1コマの授業時間は90分である(夜間部の場合は80分)。これは、大学に入学したばかりの1年生が直面する大学と高校の最初のギャップであり、私だって20数年前に体験したことである。
ある高校で私が講義の最後で何か質問があるかを尋ねたところ、ある運動部風の男子生徒が質問をしてきた。その生徒は「大学は90分授業だと知りましたが、ハーフタイムは何分あるのですか?」と聞いてきた。私はハーフタイムを講義と講義の間の休憩時間だと思い「本学では10分です。ただし昼食時は60分です」と回答した。すると彼はちょっと不思議そうな顔をして、「10分だったら、前半と後半にわけたら40分授業になって高校よりも楽ですね」と返答した。その生徒は1コマ90分の授業中に休憩時間はあるのかという意味での質問をしたのだった。むろん、教室にはちょっとした笑いが起こった。
そんなことがあって以来、私は自分の授業にもハーフタイムを取り入れてみようかと思うようになった。特に、学生達が集中力を失っているなと感じるとき、それを呼びもどすという意味でもいい方法ではないかと思うようになったからだ。そんなことを私のゼミのOBに話したら、彼からは「ハーフタイムを入れるのは結構だと思いますが、そのためにやることが終わらなくなってロスタイムや延長戦に入ったら最悪ですよ!」との指摘をもらった。スポーツはロスタイムや延長戦こそスリリングな時間であるが、大学の授業では無駄以外の何者でもないということを改めて痛感した。

教えることと育てること

2012.6.29
総合政策学部教授 吉水 弘行

大学で学ぶ者たちは、当然のことだが、その性格、得意分野、学力は様々である。どんな大学にも、学生はぴんからきりまでいて、「なぜこんな何も知らない男が、大学にいるのか」という学生は必ずいるものである。
だが、人間の能力は本来それほど変わるものじゃない。人々が一般にいう学力とか教養があるというのは、それまでの生活習慣のちょっとした違いの積み重ねによるものだ。暗記力や理解力や忍耐力や知識量といったものも、同一人でも好きな分野と苦手な分野では、月とすっぽんほども違う。教師はそういった環境で、どの学生も平等に指導して一定の水準を突破させるために努力を続けている。
わが2年生のゼミでは、通常行う共同研究ではなく「簿記」の勉強をしたいと全員がいうので、「簿記」の講義・解答練習を行っている。毎週、熱心に目の前で問題を解いているゼミ生たちを見て、この調子なら検定試験にも合格できるだろうと思った。
だが、資格試験の合格指導に抜群の実績を上げている同僚の教師にそれをいうと、「それは甘い」という。なぜなら、「教師が限られた時間で説明できるのは、本当に必要なエキスだけだ。だが、試験に合格するためには、試験範囲の隅から隅まで踏破して自分のものにする必要がある。それは、学生が長時間自習することによってしか達成できない」。教師が楽しく説明しただけでは、学生はそれで満足して学習した気になってしまい、後が続かない。「ゼミ以外で、彼らをどれだけ机に向かわせられるかが問題だ」という。
合格させるために最も大事なのは、学生たちに自分で学ぶ習慣を身につけさせることだ。教師の難しさは「いかにうまく教えるか」よりも「いかにうまく育てるか」にあると聞いて納得をした。

丘の上の風

2012.6.22
総合政策学部教授 三木 賢治

昔から山羊と煙と何とかは高いところに登りたがるというが、昨今のスカイツリーをめぐる狂騒を見ていると、世の“山羊族”の多さに改めて驚く。
かく言う私もご多分に漏れず、高いところが大好きだ。学生時代は北アルプスに惹かれて山々を歩き回っていた。メタボになってからは小高い丘に登る。大自然に囲まれた丘よりも、人里を見渡す丘を選ぶ。登りやすいからでもあるが、気弱になった身には自然の雄大さは手強すぎる。
香港のビクトリア・ピーク、北海道の函館山、大和三山を望む奈良・飛鳥の甘樫の丘……。気に入った丘には繰り返し足を運んで、飽かず景色を眺めている。
春風や闘志抱きて丘に立つ
高浜虚子がライバルの河東碧悟桐と句作でしのぎを削っていたころの煥発たる句だ。
私は違う。「春風や闘志抱きに丘に立つ」だ。眼下に広がる町を見渡して、町が形成された歴史を懐い、健気に暮らす無数の無名の人々の営みに思いをはせる。病気の人も、失恋した人も、破産した人も、みんな懸命に生きているに違いない。そうだ、自分も頑張らなくちゃ……。丘の上には、萎えそうになる気持ちを鼓舞してくれる不思議の風が吹く。
その意味で、国見の丘に立つ本学のロケーションは最高だ。東向きの窓の外には、仙台の市街地が広がり、その向こうに仙台湾や牡鹿半島が煙っている。とくに夜明けがいい。太平洋の大海原から顔を出し、あたりを白く、続いて薄桃色に、さらに橙色、紅色に……と天空を染めていく日の出のグラデーションは荘厳そのものだ。夜もいい。靄がかかった日には、灯りという灯りが揺ら揺らと瞬く。
仙台駅から電車で十分ほど、しかも駅前。これほど地の利に恵まれた大学は滅多にあるまい。窓を見やるたび、幸せを感じる。最近は海岸部の被災者を案じ、己の甘えを振り払おうと心がけてもいる。
問題はこの頃、私の研究室の周りでは、不思議の風が弱まっていることである。

Developing “T-shape” Citizens

2012.6.15
総合政策学部講師 ジム・スマイリ

Until 15 years old, we learn the same basic things at school: art, language, maths, music, science, social studies and sport. At high school, we may continue those subjects, or we may begin studying other topics. But it is at university that we can really hone in on a single subject and start the process of becoming an expert in that field.
An old English saying about experts―which is quite pejorative really―goes, “a specialist is someone who gets to know more and more about less and less until finally they know everything about nothing”! The joke here is that the specialist’s field of vision gradually becomes narrower until they can see nothing. The humour works because the saying has a grain of truth. Specialists see much more in what appears small to a novice.
I prefer to re-frame this more positively: as a visual metaphor expressed by the letter “T”. The downward line represents the depths to which the specialist‘s understanding and vision reaches, and the horizontal bar in the “T” refers to a surface-level knowledge of many
more topics. The “T-shaped” person is someone who knows a little about many topics and a great deal about a single one.
At university, we aim to develop our students into “T-shaped” people. While exposing them to a wide range of topics, our classes investigate more specialist subjects deeply. Students see the depths involved in advanced study, and their understanding of their field eventually becomes expert.
At the Faculty of Policy Management, our system allows the first-year student to get a taste of understanding of many policy management subjects. And starting from their second year, they develop a deeper knowledge of more specialist field. Such a graduating student is a great boon to the Tohoku society: the “T-shaped” people of “T”alented “T”ohoku.

マニラの“自由道場”

2012.6.8
総合政策学部准教授 永澤 雄治

1995年の12月、私はフィリピンの首都マニラに滞在していた。滞在の目的は、日本政府が東南アジア向けに行っているODA(政府開発援助)の調査であり、現地のJICA(日本国際協力機構)事務所に勤務する青年海外協力隊・調整員と共に教育プロジェクトを訪問していた。そんな中、調整員の青年がチャイナタウンの拳法道場に通っているという話を聞き、その道場を見学することになった。
マニラのチャイナタウンにある道場は、古ぼけた建物の2階にあった。狭く、急な木の階段をきしませながら上がると、道場には初老の男性と12、3歳くらいの男の子がいるだけだった。この初老の男性は、ポロシャツに短パンという軽装で椅子に座っていた。男の子は、トレーニングパンツをはいていたが上半身は裸で、ゴム製のパンチバッグに抱きつきながら歌を唄っていた。
この初老の男性が道場の先生であった。青年は私(当時は私もまだ若かったが)をこの先生に紹介してくれ、快く見学が許された。着替えを済ませた青年は、一人で黙々と型の稽古を開始した。腰を深く落とした中国拳法の構えを基本として、腕と下半身を使いながらの移動稽古だった。この段階でも先生は椅子から立ち上がりもせず、眺めているだけだった。私が話しかけるとニッコリと笑ってくれた男の子は、相変わらず「ゴムバッグ」に抱きついて歌を唄っていた。
先生は時折、青年を呼び、幾つかの助言を与えた。練習生は黙々と一人で稽古に励み、先生はたまにアドバイスをするというのがこの道場のスタイルのようだった。最後に先生は椅子から立ち上がり、遊ぶのにも飽きた男の子を呼んで、3人で演武を見せてくれた。私は先生に御礼を伝え、男の子に声をかけてから道場を後にした。
このような稽古のありように、私は少なからずショックを受けた。それまで日本で体験していた道場での稽古は、同じ動き(型)を練習生全員で一斉に行うというものであった。それに比べ、マニラのチャイナタウンの道場はなんと自由なことだろう。稽古をやりたいと思う者が自発的にやり、教える側はその時々で必要な助言を与えるという方法もあったのだ。私は大学で武道同好会を開いているが、打撃系から投げ・寝技系まで様々な流派経験者が集まっている。私自身が2つの流派の動きしか知らないということもあるが、ここでの基本は各流派の動きから自発的に学びを得るというものである。マニラの“自由道場”で学んだことを多少は実践しているつもりなのだ。

武道同好会メンバー (2011年撮影)

好奇心旺盛なオマーンの大学生

2012.6.1
総合政策学部准教授 増井 三千代

 「日本人は世界で一番インテリジェントな国民だと聞いていますが、本当ですか?」、「日本の大学では日本語で授業が行われるのですか?」等、想定外の質問を矢継ぎ早に浴びせられて困ってしまった。
これは、3月末にオマーンの首都マスカットにあるOman Dental Collegeの英語授業(1年生)を視察したときの出来事である。校内に入るやいなや、学生たちは半袖ポロシャツ姿のアジア人に驚き、好奇の目で見つめていた。私もまた、民族衣装をまとった学生の集団を目の当たりにして、正直初めは威圧感のようなものを感じた。
ちなみに、オマーンでは通常男性は「ディシュダーシャ」と呼ばれる白い長衣の民族衣装に、「クンマ」という刺繍を施した帽子を被る。一方、女性は「アバヤ」という全身を包む黒い長衣にスカーフを被る。
5~8月には最高気温が40度を超える蒸し暑いオマーンで、この長袖の衣装はいかがなものかと思ったが、実はオマーンの建物にはエアコンが完備され、レストランなど、どこに行っても建物内は強烈に冷房が効いているのである。これは訪問した大学も同じで、私は設定温度20度のキンキンに冷えた教室の片隅で、必死に寒さに耐えなければならないほどだった。
さて、オマーンの学生たちは好奇心旺盛で、非常に熱心に勉強に取り組んでいたが、突然の来訪者に勉強に集中できないのか、担当教員の計らいで、急きょ私とのQ&Aセッションが設けられた。それが冒頭の質問攻めである。オマーン人は非常にフレンドリーで親日的だと聞いていたが、日本のポップ・カルチャーから経済問題に至るまで、これほど日本に関する情報がオマーン社会に浸透しているとは夢にも思わなかった。
セッション終了後に記念写真の撮影をお願いしたところ、各学生が「私も!」と言ってカバンから一斉にスマートフォンを取り出し、大撮影会が繰り広げられた。そんな中、一人の学生がスマートフォン片手に駆け寄ってきた。「今充電が終了したから」とのことだった。大学の電気を失敬するちゃっかりした学生がいるのかと思ったが、そういえばどこかで同じ光景を見たような……?

愛嬌一杯の笑顔でSay,Cheese ! (2012年3月撮影)

謎の“遅刻者”

2012.5.25
総合政策学部教授 李 聲杓

学生の遅刻は教師にとって悩みのタネである。授業が始まっているのに、堂々と入室してくる学生を目にすると、心穏やかではいられない。ある日、授業の終わり間際になって現れた学生の姿に、ふと昔の出来事が脳裏をよぎった。
海商法を担当していた教授は、学生の遅刻に異常なまでに厳しかった。授業が始まると教室の後部ドアをロックし、教壇の横のドアしか出入りできないようにした。1分でも遅刻した学生が来ると、謝らせてから一番前の席に座らせ、授業中、何回も質問をする。学生たちが遅刻をするなら欠席した方がマシ、と思っていたのも無理からぬところだった。
真夏のある日、それでなくても蒸し暑いのに、教室のエアコンが故障していた。教える側も教わる側もいらいらを必死にこらえる中、授業は鬱々と進められていく。1時間ほど過ぎた時だった。突然、前方のドアが開き、一人の男が入ってきた。
小うるさい教授の授業に1時間も遅刻してくるとは、正気の沙汰ではない。よほどの勇気の持ち主か、それとも……。学生たちの好奇心に満ち満ちた視線が、一斉に男に浴びせられた。髪はぼさぼさ、持っているかばんは薄汚れ、寝起きのような顔は汗塗れだった。よりによってこんな日に、遅れるとは。教室の学生たちの好奇心は、やがて憐憫の情へと変わっていったかのようだった。
教授は呆れた顔で男を見つめながらも、低い声で平静を装って尋ねた。「君、今何時だと思っているの?」。男は悪びれた風もなく、「11時半ですが」と澄まして答えた。
その姿が癇にさわったか、教授は体を震わせ、語気を強めた。「時間を承知でやって来たのか。君は昨日の晩、いったい何をしていたんだ」。男はそれでも顔色一つ変えずに「友だちと夜遅くまで酒を飲んでいたんです」。
ふてぶてしい男の態度に、教授の怒りは頂点に達した様子だった。「一体、君は何のために学校に来たんだ」。罵声が教室に響いた。すると、さすがの男も首をすくめ、恐縮した顔つきでこう返事した。「あのう、エアコンの修理に来たんですが」
瞬間、学生たちの笑いが弾けた。が、直ぐに笑い声は収まった。苦り切った教授の表情が哀れと映り、誰もが必死に笑いをこらえたのである。

変わるものと変わらないもの

2012.5.18
総合政策学部准教授 矢口 和宏

今年のゴールデンウイークは最大で9連休となったが、本学園をはじめとして多くの大学では5月1日(火)と2日(水)は平常授業であった。そんな1日の午後、本学園の卒業生が私を訪ねて来てくれた。彼は9連休を利用して仙台に帰省し、卒業式以来はじめて母校の門をくぐったのだ。彼は1999(平成11)年に入学し、2003(平成15)年3月に卒業した本学園の栄えある第1期生であり、9年ぶりの来校であった。
彼が開口一番に言ったことは「いやあ、仙山線は便利になりましたね。まさか国見に快速電車が停まるとは、今の学生はいいですね!」であった。私はもう仙山線での通勤にすっかり慣れてしまったから、大学の最寄り駅である国見に快速電車が停車するのはあたりまえの感覚である。でも、ふと思い出してみれば、本学が開学した1999年頃の国見駅は快速電車が停まらなかったうえに、改札も本学とは反対の南側にあったのだ。そのため、駅から大学に向かうには一度踏切を渡る必要があり、帰宅の際には踏切を渡ってからでないと電車に乗れなかったのである。予定の電車に間に合わず、踏切のところで走りさっていく電車を眺めたことも度々あり、夜遅いときには次の電車が来るまでひとり寂しくホームで待ったものである。だいたいそんな夜は、仙台高校の部活動帰りの生徒達とよく出くわしたものだ。
そんな昔を思い出していると、仙山線も国見駅もずいぶん便利になったものだと実感する。仙山線は便利になっていくが、開学当初から変わらないものもある。それは、国見駅を利用する本学の学生と仙台高校の生徒達の様子である。服装や髪型はその時々の流行によって変わっているが、立ち振る舞いや友達との会話のしぐさなんかは全然変わっていない。学生はいつの時代になっても学生なのである。また今日も、本学園の学生と仙台高校の生徒は国見駅を利用し通学している。電車と駅の光景は永遠の思い出になるだろう。

 

余計なお節介は迷惑

2012.5.11
総合政策学部教授 吉水 弘行

軟式野球サークルの顧問をしている。本学では準硬式野球は以前からかなりの部員をそろえて活発だが、軟式野球サークルは一昨年創設され、昨年サークル認定されたばかりである。
現在は東北軟式野球連盟に所属し、毎週のように他大学との対抗試合を行っている。だが、いかんせん、練習不足もあり、なかなか勝てない。毎試合ごとに反省会もやって、「次の試合こそ」と雪辱を誓うのだが……。
ベンチで見ていると、味方投手が好投して相手打者をせっかくの凡フライに打ち取っても、野手がポロッとやってしまう。これでは勝てない。
本学学友会では、サークル活動活発化を進めていて、各サークルには専門的な技術指導者を依頼できるように、十分なサークル指導費を用意している。だが、まだ軟式野球サークルには指導者がいないので、学生だけで練習している状態である。私はあいにく生まれついての運動音痴で指導する能力をもちあわせていない。
毎回、顔を合わせるごとに、「次は絶対勝ちますから」とけなげにいう主将に対して、「誰か早く良い指導者を見つけよう。」と声をかけた。
勝ちたい一心の彼らだ。当然「よろしくお願いします。」と声が返ってくると思った。ところが、なんと「先生、余計なことはしないでください。」というのだ。
一体何が起きたのだろう。訊いてみると、「俺たち野球は好きだけど、高校時代も甲子園に行けるほど強かったわけじゃない。だけど軟式でもいいから野球を続けたくてサークルを創ったんだ。」
要するに試合には勝ちたいけど、それを至上目的に練習する気はない。無理をせず、やれる範囲で楽しめればそれでいい、というのである。
私は改めて、自分の一方的な思い込みで、彼らを見ている愚かさを思い知ると同時に、いつの間にか「勝ち負け」にこだわっていたのは自分の方だと悟った次第である。

 


覚悟の代返

2012.5.4
総合政策学部教授 三木 賢治

出欠をとる際、欠席した友人に代わって返事をする、おせっかいな学生の存在は、大学の教員を大いに悩ませます。私は授業ごとに1問か2問の出欠テストを行っていますが、同じ筆跡で、しかも、同じ間違いを犯している答案を見つけて苦笑させられることが珍しくありません。答案用紙を一人一人に配れば防げるでしょうが、はなから教え子を疑ってかかるのは憚られますし、出席を確認するためのもので、採点結果は評価に反映させません。そう説明し、無駄だからやめるように注意するのですが、なかなか後を絶ちません。
そもそも出欠をとるのは、一義的には勤勉を促すためでしょう。ろくに講義を受けずに単位をねだる横着者を排斥する狙いもあるでしょう。しかし実際には、むしろ出席点を定期考査の得点に上乗せし、評価を少しでも引き上げてやりたい、との教員の親心につながっているような気がします。
そこに付け入る『代返』は、心ない仕打ちです。する方もさせる方もずるい。結局は欠席した学生のためにならない。果たして、『代返』だけでなく、しっかり講義ノートをとって友人に渡す学生はいるのでしょうか。
それでも、全否定する気にはなれません。逆に、すがすがしい『代返』を待ち望む心が、私の中でざわめきます。と言うのも、恩師から痛快な体験談を聞かされたからです。
フランス語の教室で出欠をとる時のこと。A君と呼んだら「はい」と答えた学生が、B君の時にも声音を変えて「はいー」と手を挙げた。さらにC君と呼んでも「はーい」。恩師は茶目っ気を出して、まずA君に仏文を和訳させた後、次にB君を指名すると、同じ学生が困った顔をしながらも立ち上がり。懸命に訳してみせた。続いてC君を名指ししても、同じ学生が汗をかきかき和訳した。
そこで恩師は言ったそうです。「君の友情に免じて、3人とも出席にするよ。ところで、君はいったい誰なんだい?」