国見テラス

総合政策学部教員によるリレーエッセイ

東北文化学園大学は仙台の町並みが見渡せる仙台市国見地区にあります。「国見テラス」のコーナーでは、国見の丘から、総合政策学部教員による気楽なエッセイをお届けしています。

「私の故郷泰安の磨崖三尊仏」

2017.8.18
総合政策学部教授 文 慶喆

「泰安」は私が生まれた故郷の名前である。韓国中部の西に位置し、三面を海に囲まれた小さな半島である。その海は朝鮮半島と中国の間にある「黄海」である。名前の由来は中国の黄河から運ばれる黄色く濁った水からだという説がある。私の故郷「泰安」は泰安半島の西の中心にある。この泰安半島と向かい合っている中国の山東半島にも泰安という地名がある。

泰安半島の長さは130km程だが、海岸の総延長は817kmに及んで、湾と岬が入り組んだとても複雑な形状の典型的なリアス式海岸をなしている。風光明媚な自然環境に恵まれた泰安半島は1978年韓国唯一の「海岸国立公園」に指定されている。また、地形的な特徴から天然の海水浴場は50以上を数え、韓国では海水浴場の一番多い町で、バカンスのシーズンになると大勢の避暑客が訪ねている。海水浴場の砂浜は真っ白で、殆どが貝殻からなっている。

海岸には韓国最大の砂丘があり、今は生態系保存地区として大事に保護されている。鳥取砂丘よりは規模は小さいものの、砂丘の長さは3.4km、幅は200mから1.3kmまでで広大に広がっている。

この半島の海は干満の差が激しいことでも有名である。これを利用して韓国最大の天日製塩場がある。製塩場の周りには松の木に覆われて、最近は特化した「松花塩」が作られている。

このように自然豊かな泰安半島であるが、歴史的には日本と韓国、中国との交流の実態が見られる面白い所でもある。泰安の中央には海抜284mの「白華山」が聳えている。花崗岩の山で、遠景からは山全体がまるで一枚岩のように見える。この山の頂上付近の大きな岩に「泰安磨崖三尊仏」彫られている。この磨崖仏の特徴は、真ん中の観音菩薩像が低く、両側の薬師如来像が高いという面白いところにある。中央の観音菩薩の高さは1.2m、両脇の薬師如来像は2mで、山自体は南向きだが三尊仏は東に向いている。このようなアンバランスの磨崖仏は中国や日本には例がなく、韓国にもここ以外にはないらしい。発見された時には半分以上が土に埋もれて、西から吹いてくる強い風により摩耗が激しくその真価が分からなかったようである。しかし、その後の研究の結果によりこの三尊仏は百済時代6世紀中頃造られ、韓国磨崖仏の元祖であることが分かった。ここから始まった磨崖仏は造形が進歩しながら韓国全土に広がり、また日本にも伝わったと考えられる。その後、このような価値が認められ韓国国宝307号に指定されている。この磨崖仏が造られた6世紀中頃は百済仏教の全盛期であり、日本との交流も盛んだった時期でもある。この磨崖仏を通じて古代における日本と韓国の交流の姿を辿ってみるのも楽しみではないだろうか。

クマの受難

2017.8.2
総合政策学部教授 三木 賢治

10年ほど前、北海道の離島・礼文島の礼文岳に登った。わずか490㍍の標高ながら自然が豊かで、ハイマツ林が広がる光景には北アルプスの趣が漂う。大海原に隣の利尻島の利尻富士が浮かぶ絶景も魅力だ。

山頂まで2時間ほどのコースだから気軽に登ったが、高山植物に見とれているうちに思いのほか時間を食い、日が暮れかけてしまった。風音が不気味に聞こえた時、北海道にヒグマがいることを思い出して怖気た。

そうだ、大声を出すことだ、と歌を歌いながら、一目散に登山道を駆け下りた。30分ほど走って、息も絶え絶えで麓の売店に駆け込んだ。血相を変えていたらしく、店員が「どうしたの?」と尋ねてきた。「クマが心配で……」と応えると、店員は噴き出した。「礼文にはヒグマは棲んでいないよ」と。一気に肩の力が抜けたが、あの時の恐怖心は今でも忘れられない。

獰猛なクマは危険極まりない。ヒグマより小柄なツキノワグマにしても、出会ったら命が危うい。昨年あたりから東北各県をはじめ各地でクマが出没し、人を襲う事故が続発している。クマが潜んでいることを承知で、なぜ、人は山に入るのか。

専門家は事故多発の原因をいくつか指摘している。ブナなどの木の実の豊作が続き、クマの繁殖活動が活発になったせいで個体数が増加した、人間の食べ物の味を覚えたクマが人里まで出没するようになった……。

その通りなのだろうが、本当の理由は別にある。ネマガリダケや山菜が、山里に暮らす人々の重要な収入源になっていることだ。ネマガリダケやミズなどの山菜はブームで高値を呼び、夫婦で採集すれば日に5万円は楽に稼げる。1シーズンで100万円から200万円の収入を得る人も少なくない。だから、クマを怖がってはいられない。生活がかかっているから、山での滞在時間も長くなる。

駆け出し記者として秋田にいた40年ほど前にも、山菜採りに出かけたお年寄りが道に迷って遭難したり、クマに襲われる事故は珍しくなかった。だが、当時のお年寄りたちの目的は、旬の味で家族を喜ばせたり、子や孫への小遣いを稼ぐことにあった。若者たちが集落から姿を消した今は違う。山菜採りは副収入ではなく、主収入になっている。

クマの事故の背景には、格差社会で切り捨てられた中山間地の人々の悲哀がある。自治体が入山禁止の措置やクマの駆除をどんなに進めても、問題の抜本的解決には程遠い。

初夏の風物詩

2017.7.18
総合政策学部准教授 増井 三千代

毎年、爽やかな初夏を迎え木々の緑が濃くなる頃、ツバメが飛来して、キャンパスのあちこちに巣作りを始める。私の駐車場から研究室がある建物までは百メートルほどの距離だが、日々出来上がっていく巣を眺めながらの通勤は、ささやかな楽しみである。

巣が完成してしばらくすると、中から「ジィ―、ジィー、ジィー」という小さな鳴き声が聞こえてくる。こうなると、親鳥は巣と外を一日に何度も往復し、ひな鳥のために餌をせっせと運ぶ。親鳥が巣に戻ると、食欲旺盛なひな鳥たちは黄色い口を一斉に大きく開け、首を伸ばして餌をおねだりする。まるで大合唱をしているかのような光景は実に可愛らしく、そばを通るたびについスマホで撮影してしまう。だが、そんな親ツバメたちの献身的な子育ても、7月に入ると終わりを迎える。

ある日の帰り道、すくすく成長した六羽のひな鳥たちが、折り重なるように巣の中でじっとしていた。そのあまりの窮屈そうな姿に巣が崩れ落ちてしまうのではと心配になったのと同時に、「いよいよ、明日は巣立ちの時だ」と直感した。

案の定、翌朝出勤したときには巣ががらんとしている様子が遠目にも分かった。だが、そばに行って巣を見上げると、一羽のひながまだ残っていた。その近くでは、複数のツバメが鳴きながら、勢いよく飛び交っていた。先に巣立った兄弟たちや親ツバメが最後のひな鳥の巣立ちを見守っていたのだろうか。残念ながら、巣立ちの瞬間には立ち会えなかったが、午後に巣を見に行ったときには、もう辺りは静かで、空っぽになった巣だけが残っていた。

その瞬間、いつも嬉しさと寂しさが入り混じった複雑な気持ちが沸き起こる。でも、これが終わると、間もなく本格的な夏が到来することを思い起こさせてくれる。そして、来年またツバメたちが巣作りに戻って来てくれることを心から願う。

こんな夏の風物詩だが、実はもう一つ恒例となっていることがある。この時期になると、庶務課から「生ものが届いているので早めの受領を」との連絡が入る。送り主は確認しなくても分かる。5年前に卒業した山形出身のゼミ生である。親戚が作っているからといって、在学時からさくらんぼをお裾分け分けしてくれたが、卒業後も送り届けてくれる。申し訳ないと思いつつも、毎年有難く頂いているが、今年の味は格別であった。1月に入籍を済ませ、家庭と両立させるために転職し、ようやく新しい生活にも慣れてきたとのことだった。

5年前、柔らかい翼を広げて学び舎を巣立ったあなたはどこか危なっかしく、支えてあげなければと思っていた。時折、訪問しては見せてくれた笑顔に安堵したが、どうやらもう心配する必要はないようである。
どうぞ末永くお幸せに!

                              2017.6.28撮影

しんぶん学生モニター

2017.7.3
総合政策学部准教授 馬内里美

河北新報社と図書館共同開催の新聞記事スクラップノート作成企画に参加した。約1か月間新聞を読み、気に入った記事を選び、コメントをつけるという。大学初めての試みである。すばらしい企画だと学生に勧めたが反応が今一つ。申し込んでいない学生も参加できる、とガイダンス開催のお知らせが来たので、基礎ゼミの一部として一年生に参加させた。

ガイダンス担当の河北新報社からのお一人は、まわし読み新聞という新聞活用イベントでお世話になった畠山さんである。楽天優勝のころだったことが思い出される。まわし読み新聞については、以前この国見テラスで書いたこともある。

伝授してもらった新聞を3分で読むコツで、目を通し、気になる記事を見つける。気になった記事をスクラップノートに張り付け、コメントを書く。新聞を読み慣れていない学生にとっては大変かもしれない。白状すると、私の場合、記事選びに苦労しなかったが、コメントは後回しになってしまった。

知人の名前や写真を見つける機会が全国紙に比べて多いのは地方紙の楽しみである。知人の活躍の紹介記事はやはり選びたくなる。総合政策学部では、外部で活躍される方々を講師に招く特別講座を開講している。私も震災以降の地域づくりとエネルギー問題をテーマとした特別講座を担当しているが、お呼びしているお二人の名前を紙上で見つけた。

実際に毎日続けていくと、いつもと違った読み方をしていることに気がついた。スクラップ記事を選ぶ目的をもって読むと、選んだ記事が次の記事を引き寄せるように、関連記事や続報が目に入ってくる。仙台港の石炭火力発電所建設問題については、以前に資料をもらったままだったが、試運転の記事に驚いた。漠然とまだ建設段階だと思っていたからだ。改めて資料を読むと、深刻な問題に危機感を持つ。そうなると、小さくても続報や関連記事が気になるものである。

今はネットで情報を得ることが多いが、改めて地方紙を毎日読むと、身近なことを知る大切さを実感する。エネルギー問題を含めた地域づくりは、まさに地方紙が得意とする分野だ。こまめに読む必要性を実感した。

地方紙はさしずめ地元の食材を取り入れたビュッフェ食堂だ。何を選び、どう味わったか。私はしっかり食べて満足だが、成り行き上入ってしまった食堂で、参加学生は、ちゃんと食べて体力をつけただろうか。

木の声、土の歌(10)

2017.6.19
総合政策学部教授 秡川 信弘

英国人に習ったという菓子作りを小学3年の夏休みに父に教えて貰った時のことを今も覚えている。幼い頃に父親を亡くした父は戦闘機の操縦士を夢見たが叶わず、㈱中島飛行機で働いた後に海軍を志願し、横須賀・呉での訓練を経て戦地に赴く。敗戦濃厚となった昭和19年、乗船した重巡が右舷を米潜水艦の魚雷に破砕されて昭南島(Singapore)に停泊することになり、終戦後は捕虜として2年余り空港建設の強制労働に服していた。

支配・制御する側の仮想現実(virtual reality)と対峙する支配・制御される側の現実(reality)。生きる心身は修羅にあっても、そこを突き抜けた先には美徳(virtue)が見えてくるかもしれない。ゲームサイトに嵌る君たちが探求しているものはどのような美徳なのだろうか。

生きるもののすべて、ヒトもムシも木も草も、いつかは生命活動という時間軸に沿った流れの終着点を迎え、活動を終えた個体は分子の統合体としての姿形を変貌させていく。私たちが未来を創造しうるのは約138億年と推定される宇宙史と比べれば極僅かな瞬間にすぎない、今ここに賦与された生命という猶予期間だけである。

生命体の集合である組織や社会に関する情報は文字や映像あるいは記憶やイメージなどさまざまな形で伝えられ、刻々と更新される情報の海の中で個体の生存期間を超えて存続しうる。海上に浮かぶか海底に沈むかの決め手はリアリティや画質ではなく、情報量でもないだろう。その浮沈は生きた証となる情報の質によって定まるはずである。

関東大震災の翌年(大正十三年)正月二十日、結核という不治の病に罹患した妹の死を看取ってから419日目にあたるその日、宮沢賢治は「春と修羅・序」の中に書いている。

  (すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
  みんなのおのおののなかのすべてですから)

東京工業大学の世界文明センターに勤めていたPulversはneuronal networkに比定される「インドラの網」を翻訳機代わりに用い、賢治の難解な表現から時空を超えた宇宙意識を抽出してみせた。すなわち、「人間も自然もこの世を形成している分子のひとつ」にすぎず、「すべての分子は時間軸を超えて」互いに繋がり、善行も悪行も巡りめぐって我身に降りかかる因果応報の仕組みを構成する要素にすぎない、と。だが、敢えて自然の摂理を繰り返すことを許してもらえば、生身の人間は時空の制約を超えることはできない。

  記録や歴史、あるひは地史といふものも
  それのいろいろの論料といっしょに
  (因果の時空的制約のもとに)
  われわれがかんじてゐるのに過ぎません

科学的に取捨選択された素材(論料)から構築される事実は時空(4次元)の制約下に存在するものであり、同次元に存在する「われわれ」が感じているものでしかない。だが、人類はその制約を打ち破ろうと真理を探求し続けてきたのであって、科学とはいわばその結晶であり、象徴である。

巨大な生産力に衝き動かされた列強が世界戦へと邁進した時代的文脈(context)において、「春と修羅・序」に込められた含意(implication)とは、各々が自らの心の中に超歴史的な美徳(宝珠)を見出し、自然生態系を包摂する宇宙に繋がる存在としてそれを磨き続ける意志を求めようとする願いであったように思えてならない。

  すべてこれらの命題は
  心象や時間それ自身の性質として
  第四次延長のなかで主張されます

みんなのすべてを修める学究(student)とは荒海に漕ぎ出し未知の生物を求める漁師ともいうべき存在であり、君たちのように、体感したことを記憶し、考え、表現し、交信する脳を介して繋がる網目のひとつである内なる宝珠を磨きながら、それに呼応して光り輝く他者の宝珠を求め、共に生きることを願わずにはいられないのだろう。

はてさて、賢治が想像した2,000年後の未来、人類が生存しているなら、どのような海で、いかなる生物を捕獲して暮らしているのだろうか。

国際社会における悲観と楽観

2017.6.5
総合政策学部教授 永澤雄治

悲観と楽観といった二元論的な見方は、国際社会においても混在しているが、最近は悲観論が優勢のようだ。EUをめぐる議論でも例外ではない。昨年6月の国民投票による Brexit(英国のEU離脱)⑴の影響で、この1年は、EU崩壊を主張する論者が絶えない。おそらく意図的に単純化した見解を述べているのだろうが、そのような議論を目にするたびに不思議な気持ちになる。

思えばEUが共通通貨(Euro)を導入する前も、EU学会の中では悲観的な見方が支配的だった。シニカルな悲観論を提示しないとインテリっぽく見えないという恐れでもあったのだろうか。ギリシャの財政危機は、「政府が二重帳簿を作成!!」という稀有な事態が招いた結果であるが、その時もEuro崩壊論がやかましかった(ギリシャ問題は継続中だが、それよりもBrexitや右派勢力の台頭などで現在は以前ほど騒がれてはいない)。

東アジアに目を向ければ、ミサイル実験を繰り返す北朝鮮政府は、6回目の核実験も計画段階にあるだろう。仮に核実験が実施された場合、トランプ政権は軍事行動に出るのだろうか?それは不可能だ。軍事力で圧倒する米軍でさえ、第1撃能力のみで北朝鮮を無力化することはできない。韓国や日本の米軍基地や都市が報復攻撃の対象となる以上、武力行使は選択肢から外さざるを得ないのだ。

イラクやシリアと北朝鮮では全く状況が異なる。米政府もそんなことは認識済みだろう(特に陸軍出身のマクマスター大統領補佐官を始めとする安全保障担当官は)。武力行使が事実上不可能である中、空母や原子力潜水艦などを派遣しプレッシャーを与えているつもりが、逆に米政府が追い込まれているようにさえ見える。

北朝鮮政府は、米本土を射程に入れた長距離核ミサイルの開発に国家の命運をかけてきた。しかもこの核戦略は過去20年以上一貫しており、残念ながら国際社会は、北朝鮮の戦略を転換させるだけの決定的な影響力を持たない。国連による一連の制裁決議はもちろんだが、米政府の北朝鮮対話に向けたサインすらも効果がなかった。

同様に中国政府の圧力も効果的とはいえない状況だが、中国政府には有力なカードが残されている。石油と天然ガス供給だ。しかしこれが最強で最後のカードゆえに、供給制限の程度と時期について、中国政府も頭を悩ませているだろう。中国政府もまた追い込まれているのだ。

相次ぐテロ事件や紛争地帯で生じる悲惨な事象に目を向けると、21世紀の国際社会は暗い時代に移行しているように見えるかもしれない。シリアを逃れ隣国レバノンに避難している男性が、報道機関のインタビューに応え、「戦争はいずれ終わる。」と話し、帰国する希望を失っていなかった⑵。

1989年11月9日の深夜に、ベルリンの壁は意味を失った。どれほど強固に見える体制であっても、ある日突然、終わりを迎えるのである(当時、筆者は自分が生きている間にベルリンの壁が崩壊するとは全く予想していなかった⑶。歴史は劇的に変化することを、世界は目の当たりにしたのだ。

今から100年前は第1次大戦中だったことを思えばこそ、歴史を考える上で長期的視点を失ってはいけないのだ。100年単位で歴史を捉えつつ、目の前の現実を冷静に観察することが、悲観と楽観の二項対立を乗り越える思考方法なのだから。

注釈

⑴2017年3月末、EUに対し離脱を通知した英政府は、離脱条件をめぐり今月中にもEUと交渉を開始する予定である。順調に行けば、2年後の2019年4月に正式に離脱することになる。

⑵この男性が使っていた「戦争」という表現について補足すると、ロシアやアメリカを始めとする外国の軍隊が介入しているシリアの情勢は、国際政治学的に見ても内戦とはいえない。

⑶ベルリンの壁崩壊とそれに続く同年12月の米ソ首脳会談における冷戦終結宣言及び1991年12月のソ連邦崩壊という一連の出来事により、「冷戦は終結した」といわれている。しかし旧ソ連(ロシア)とアメリカ及びその同盟国間の軍事的緊張が解消されない限り、冷戦は終わったとはいえないだろう。ロシアがNATOに加盟した時に冷戦は本当の意味で終わるのだ。

名車たちを前にして感じたこと

2017.5.22
総合政策学部准教授 立花顕一郎

 

今年の3月中旬に学会発表のためカナダのオンタリオ州トロントに行ってきました。およそ20年ぶりに訪れたトロントについてはまた別の機会に書くことにして、今回はトロントからアメリカのミシガン州デトロイトに足を伸ばして訪れたヘンリーフォード博物館で経験したことをお伝えしたいと思います。

デトロイトへは学会発表を一緒に行った研究者仲間のご夫妻とレンターカーを借りて行ってきました。陸路でカナダからアメリカに入国する際には、アンバサダー橋というとても大きな吊橋を通ります。1929年(世界大恐慌の年!)に完成したこの橋の長さは全長が2,286mもあり、完成した当時は世界最長だったとのことで、橋の上から見る景色は一見の価値ありです。この橋を無事に渡りきると、デトロイト川にアメリカ側の入国審査施設があります。そこには機関銃を持った男性が数人いて、私たちを見るなり、荷物を全て持って車を降りて建物の中に入るようにと促しました。建物の中では予想外に念入りな審査を受け、40分〜50分もかかってから解放されて車に戻ることができました。

実はこの橋を渡って入国審査を受けるのは初めてではありません。今回で10回目くらいです。私は1988年から2年間、ミシガン州の州立大学に留学していたので、当時日本から親戚や友達が訪ねてくるたびにアンバサダー橋を渡ってナイアガラの滝やトロントの中華街まで観光に行きました。この頃、入国審査にかかった時間はほんの5分ほどだったと記憶しています。やはり、2011年に起きた同時多発テロと、移民規制強化を唱えるトランプ大統領就任の影響で国境の警備が相当に強化されていると感じました。

さて、無事に国境を通過したわれわれ一行はほどなく目的地のヘンリーフォード博物館に到着しました。この博物館は隣接しているグリーンフィールド・ビレッジともどもエジソン学会が運営しています。どことなく日本の明治村を想起させるグリーンフィールド・ビレッジは、トーマス・エジソンの研究所やライト兄弟の自転車店、辞書編纂で有名なウェブスターの旧居など大変貴重な歴史的遺産が保存展示されているので有名です。しかし、残念ながら私たちが訪れた時には冬季閉館中でした。ミシガン州では冬はマイナス20度を下回ることがあるので、冬に見学に来る人が少ないため閉館は仕方がないことのでしょう。それでも、私たちが一番楽しみにしていたヘンリーフォード博物館の自動車の殿堂(Automotive Hall of Fame)はゆっくりと見学することができました。この施設には、T型フォードから、歴代アメリカ大統領の自動車、ヨーロッパの名車、さらにはトヨタ車や日産車にいたるまでが所狭しと展示されていて、車好きの人にとって一度は訪れたい自動車遺産の宝庫です。

個人的な話になりますが、私の実家は自動車整備工場とガソリンスタンドを営んでいたので、子どもの頃は工場にあった車輪付きの戸板のようなものに寝転んで整備中の車の下に潜り込んで遊んだり、夜遅くまで自動車を分解したり組み立て直したりする作業をながめていました。門前の小僧で1960年代後半の日本車の修理をたくさん見てきた私は、当時の日本車が技術的にアメリカ車よりも劣っていてトラブルも多かったことをよく知っていますので、今日、アメリカの自動車の殿堂に日本車が展示されるているのを見ると、改めて感慨深いものがありました。

しかし、今回、久しぶりに車の殿堂を訪れて、一番印象に残ったことは日本車の進歩ではなくて、意外にも、第二次世界大戦以前につくられていたアメリカ車のデザインがとても魅力的でカッコよく見えたことでした。かつて自分が30代で訪れた時には、むしろそれらの車をとっても冴えない車であると感じたことを今でも覚えています。どんな心境の変化なのか、自分でもうまく説明できないのですが、一つか二つ思い当たる理由があります。一つ目は、最近の新車が没個性的であるように感じることです。二つ目は古いものの中にも普遍的な価値があるのかもしれないと感じるようになってきたことです。ただし、二つ目については、自分自身の成長の結果なのか、それとも単純に歳をとったせいでそう考えるようになったのか、自分自身で結論に達していないというのが正直なところです。いずれにしても、ヘンリーフォード博物館は、大人でも子どもでも楽しめるところですので、機会がありましたらぜひ一度は訪ねてみてください。

第6番目の登録商標

2017.5.8
総合政策学部教授 小出 実

「TBGU知財塾」は、学生・教職員を対象とした発明の楽しさや知的財産管理に関する実践的な修得と「知的財産管理技能検定」の国家資格取得の学習の動機づけ等を意図した本学の教育改革支援費によるセミナー・ワークショップである。本学に昨年4月に着任して丁度1年近くになる今年2月の始め頃に教育改革支援費に対する研究成果報告が少し気になっていた。

その理由は「TBGU知財塾」の貴重な予算額に対して少し残額があったからだ。それは外部からの実務家の講師派遣費が予算額の大半を占めており、計画項目に対する支払い金残額が中途半端な金額というだけでなく何かやり残した気持ちがしたからである。

例えば、商標出願を弁理士事務所へ依頼すれば、1桁違う費用が必要となってくる。ただし、特許庁へ直接出願すれば予算内の残金で収まる金額であった。計画項目を一部改訂して「TBGU知財塾」自体の商標出願を実際に学生に体験させる申請をして承認してもらった。

ところで、「知的財産」とは、人の創造の成果として生み出された経済的に価値のあるもののうち法的な権利の対象となったものである。また、知的財産権法は、「特許法、意匠法、商標法など一定の権利を付与する法律の総称」であり、そのうちの商標法は、保護対象が商品やサービスに使用する「マーク」(商標)である。

商標の起源は古くてイタリアの職人が自らの工芸品に自分の署名を彫っていたといわれている。我が国の商標制度の歴史は、明治十七年(1884年)に最初の商標法である「商標条例」が制定され商標第1号は、「膏薬丸薬」の商標に始まっている。最近では地域の商品名と地域名からなる商標の出願が地域の特産品等によるブランド作りが地域団体商標制度のもとで全国的に盛んに行なわれている。

「TBGU知財塾」の商標出願を行うに際に本学に関する登録商標を調査してみると本学のマークを初め既に5つの商標が登録されおり、この商標出願が登録されれば、第6番目の登録商標ということになる。

昨年初めに、レオナルド・ダ・ビンチ(1452ー1519)天才の挑戦と題した展覧会が江戸東京博物館で企画されていた。自然観察を通じて真理に近づこうとしたレオナルドの挑戦について日本初公開の絵画「糸巻きの聖母」と直筆ノート「鳥の飛翔に関する手稿」などを直接拝観する機会を得た。ケース越しのノートは小さく彼が携帯していたものと思われた。「TBGU知財塾」のシンボルとして彼の思いに少しでも肖りたいと学生と共に手稿の鳥と発明品の飛行機のデッサンをあしらった商標を2月末に出願することができた。

ピタゴラス勝率

2017.4.20
総合政策学部准教授 河本 進
 

春になり、今年もプロ野球が開幕した。本学がある仙台市を本拠地とする東北楽天ゴールデンイーグルスは、開幕から5カード連続して勝ち越し、12試合を消化した時点で10勝2敗(勝率0.833)という好スタートを切った。対照的に、我が中日ドラゴンズは、開幕から5カード連続で勝ち越しなく、14試合を消化した時点で3勝9敗2分(勝率0.250)という厳しいスタートとなった。

プロ野球の公式戦では、勝敗の記録は当然であるが、得点・失点・安打数・本塁打数・三振数など様々な統計データを公式記録として記録している。ビル・ジェームズは、1977年から出版を始めた著書『Baseball Abstract』シリーズにおいて、統計学などを駆使して公式記録の様々な分析を行った。ビル・ジェームズは、野球の客観的見地からの調査研究をアメリカ野球学会の略称「SABR」と測定を意味するmetricsをつなげた造語「セイバーメトリクス(SABRmetrics)」呼び、セイバーメトリクスを用いた客観的な分析が選手の評価、チーム力の強化に重要であることを提唱した。当初、あまり注目されたかったセイバーメトリクスであったが、2003年にマイケル・ルイスが著書『マネー・ボール』で、オークランド・アスレチックスのビリー・ビーンGMがセイバーメトリクスを用いて低予算でプレーオフ常連の強豪チームを作り上げていく様子を描いたことにより、広く知られようになった。

プロ野球のチームは優勝を目標にチームを編成しているが、プロ野球における順位は、引分を除いた試合の勝敗数を用いて計算した

      勝率=勝数÷(勝数+敗数)

で決められる。また、1つの試合における野球の勝敗は、言うまでもなく得点を多く取ったチームの勝利となる。言い換えれば、得点-失点がプラスならば勝利で、マイナスならば敗北になる。そこで、ビル・ジェイムズは総得点と総失点が勝率に与える影響を分析して、ピタゴラスの定理を模した簡単な計算式

ピタゴラス勝率=総得点×総得点÷(総得点×総得点+総失点×総失点)
を考案した。ピタゴラス勝率を用いることで総得点と総失点から勝率を予測できるので、勝率がピタゴラス勝率を大きく上回っていれば、シーズンを通して接戦のゲームを上手く勝ち切っていると言え、反対に、勝率がピタゴラス勝率を大きく下回っていれば、接戦のゲームを落としていると言える。まだ、今シーズンは始まったばかりだが、楽天は5カード12試合を消化した時点での総得点が65点、総失点が51点、ピタゴラス勝率が0.619である。また、中日は5カード14試合を消化した時点での総得点が35点、総失点が54点、ピタゴラス勝率が0.296である。つまり、楽天は得失点力以上に試合を勝ち切り、中日は試合を落としていると思われる。しかし、ペナントレースは始まったばかりである、シーズンの最終結果はどうなるのであろうか?仙台の地で楽天と中日の日本シリーズを観られることを期待している。

佐渡ロングライド210

2017.4.5
総合政策学部 講師  淡路智典

以前の国見テラスにロードバイクに乗ることが趣味であると書いた。その中で、最も印象に残ったイベントである佐渡ロングライドの思い出について語りたい。

ロングライドは、順位やタイムを競うものではなく、長距離を自転車で走り、完走を目指すイベントである。佐渡ロングライドは、その中でも特に長い距離を走るものであり、最長コースは日本最大の島である佐渡ヶ島を1日で1周する210kmという、日本でも数少ない200kmを越えるイベントである。

距離の長いロングライドイベントは、大体早朝からはじまる。安全確保のために、日没時間より前を制限時間とすることが多いので、必然的に早くなる。当日は4時台に起床し、早めに朝食をとり、自転車に乗る準備をして、出発地点に向かう。多少、肌寒さを感じる朝6時がスタートの時間となる。3000人以上が参加するイベントなので、一斉にスタートすると混雑するため、安全のために数十人ずつ分散してスタートさせる。いよいよ自分の番がまわってくる。朝の気持ちのよい空気の中、海岸沿いの道を走る。大きいサイクルイベントに参加すると、沿道の人達が声をかけてくれたりする。210kmの道のりには当然、平坦な道もあれば、きつい坂道もある。走りやすい道もあれば、走りにくい道もある。だらだらと続く長い坂道を走っていると、何で自分は望んでこんな辛い思いをしながら自転車に乗っているのだと思うこともある。佐渡ロングライドには、チェックポイント毎に制限時間が決まっており、制限時間を越えるとリタイアとなる。最終的には12時間以内にゴールにたどり着ければ完走となる。私はあまり速くないため、チェックポイント毎に制限時間ぎりぎりであった。100km走ってもまだ半分すら行っていないという事実に打ちのめされそうにもなった。200km近く走った後に、長い上り坂があった時には、リタイアしたらどんなに楽だろうと思うこともあった。色々な思いをしつつ、最後の気力を振り絞り、制限時間の5分前にゴールすることができた。

完走直後は、ほとんど動けない状態であったが、何物にも代えがたい達成感があった。ペダルを1回だけ回すことは誰でもできる。しかし、自転車は自分の意思でペダルを回さない限り進まない。小さな行為はあるが、それを自分の意思で10回、100回、1000回、10000回と積み重ねて、途方もない距離を進むことができた。その事実が達成感につながったのだろう。

一つひとつの小さな積み重ねが大きなものにつながるという事実は、自転車以外のことにも通じているように思う。新しい生活が始まる新年度にあたり、学生達も何か目標を見つけ、それに向けて一つひとつ積み重ねていって、大きなものを達成できるように過ごしてもらえばと願っている。

災害救助犬の修業

2017.3.9
総合政策学部教授 岡 惠介

東日本震災の後、何も出来ないでいる飼い主の私に命ぜられて、イエローラブラドールのルカは災害救助犬になるための勉強をはじめた。

一般に災害救助犬にはシェパード、ラブラドール・レトリバー、ゴールデン・レトリバー、ベルジァン・マリノア、ボーダー・コリーなどの犬種が向いていると言われているが、他の犬種でもなれないわけではない。震災時に海外からきた災害救助犬も、様々な犬種がいた。施設に保護されていた雑種のイヌが災害救助犬になった例もある。

しかし、百頭のイヌの中で災害救助犬になれるのは八頭、その中で優秀な災害救助犬になるのは四頭だけというデータもある。

しかもこのような作業犬を目指す場合は、盲導犬でもそうだが、一歳になる前後から訓練をはじめるのが普通である。

ルカは合格率八パーセントの、数字的には司法試験以上の難関に、二歳からの遅まきスタートで挑むことになってしまった。

周囲からは、せっかく楽しく暮らしている家庭犬に、そんな難しい訓練をさせる必要はないのではないか、という声もあった。もっともである。私もそんな迷いがなかったわけではない。

ただ、ルカというイヌは、前に飼っていたチャコと違って、自分の意志のようなものを示すイヌだった。私が面白くないことがあって、八つ当たり気味に彼女を叱ったりすると、ここで叱られるのは納得いかないという顔をした。ただ飼い主に甘えるだけではなく、自分の意志のようなものを感じさせるイヌだった。私の思い込みだったのだろうが、彼女は何かをやってみたいのではないか、という気がしていた。

週に二回のペースで、犬の訓練士さんが朝ルカを車で迎えに来て、練習後、夕方家まで送り届けてくれるという形で訓練はスタートした。  

最初は「服従訓練」からだった。服従訓練というと、嫌がるイヌを無理やりねじ伏せているようなイメージを抱いてしまう。だがこれは、イヌがきちんと人間の指示を理解して、その様に行動できるようになるための訓練で、本来家庭犬であっても施しておくべきものである。

教え方も、厳しく気合を入れる場面もないわけではないが、基本的には指示通りに出来れば、美味しいオヤツや遊びのご褒美が待っている楽しいものだった。

家でのルカの行動にさほど変化はなかったが、朝迎えの車のエンジン音を聞き分けて、玄関で早く出してくれとはりきり、自慢げな顔をして帰って来るようになった。

話題のアニメ映画

2017.2.23
総合政策学部准教授 大野朝子
 

2016年のキネマ旬報で日本映画ベストテンの第一位に選ばれた、『この世界の片隅に』を鑑賞する機会があった。アニメ映画が受賞するのは、『となりのトトロ』以来、28年ぶりだそうだ。

テレビで紹介されていて、偶然知ったのだが、一目見て、その色使いの柔らかさと、主人公の可愛らしい姿に心を奪われてしまった。戦前のごく普通の日本人の生活が細かく描写されている、というところも興味深い。さらに、主人公の声は、大好きだった朝ドラ、『あまちゃん』の女優が演じているという。

ドキドキしながら映画館の座席に着く・・・コトリンゴの音楽と、アニメの映像がぴったり合っていて、なんともいえない、ふんわりとした雰囲気で映画は始まった。主人公のすずは絵を描くのが大好きな少女。冒頭のシーンは、どこまでが現実で、どこまでがすずの想像なのかわからない。なにせ、すずは、いつも心ここにあらず、という感じの、ひたすらぼーっとした、空想が大好きな女の子なのだ。戦争の傷跡をまだ受けていない、無垢な広島の街の風景が広がる。

しかし、すずの子供時代の描写はすぐに終わってしまう。物語は主に彼女が18歳でお嫁に行ってからの数年間を中心に展開する。平凡な海辺の町が、いつのまにか戦争に巻き込まれ、すずも、すずの家族も、とにかく生活を守り、身の安全を確保するのに精一杯だ・・・。やがて、悲劇が次々に襲って来て、すずも、無邪気な少女のままではいられなくなる。

戦争を描いた映画はいくつもあるが、このような形で普通の人々の、普通の生活を丁寧に描いた作品は珍しいように思う。「当たり前」に思えていたことが、ある日突然、当たり前でなくなることの恐ろしさを痛感した。

すずの家族は、最後に終戦を迎える。家族で支え合って、何もないところから再出発しようとする、彼らの凜とした姿がとても美しかった。深い傷を負った者同士であるからこそ、嘘偽りのない、本当の気持ちで寄り添うことができるのだろう。

直感的に「なんとなく面白そう」と思い、一人、映画館に足を運んだのだが、今年一番の収穫だったかもしれない。

委縮した故郷の地域社会

2017.2.9
総合政策学部教授 王 元

我が故郷臨渙(中国安徽省)は今人口一万人足らずの小さな古鎮です。人口だけで見ても、おそらく2000年前の漢代からそれほど大きな変化はありません。昔は麦の産地で鎌が有名だった。なぜ委縮かといえば、都市化の波に飲まれた感じです。一応、鉄道や道路が昔からあったが、交通の要所から外れてしまっていた、といえるのです。昔は河川だったから非常に船通りも多かったが、結局陸道をつかうようになったから、そこは、「まったく」の田舎になってしまった。

故郷は大々的に発展させて、大都市になることを望んではいないのです。問題は社会そのものが空殻になっているという、社会が委縮してしまったような感じです。つまり、人はそこにいるのですが、人口は減少し、産業も独自のものを持てなくなってしまった。どうも都市と農村をつなぐような役割しか果たしていないようなものです。例えば、建設の材料を売っているとか、村の人がここに来て買うということです。昔は人口があり、病院、学校などいろいろな施設がありました。今は小学校もあまりなく、高校はありました。また、病院が駄目になってしまった。というのは、お年よりは良い医療施設を求めて、都市に行くようになったのです。なので、鎮のような小さなところの病院は維持することができなく張ってしまった。小さい診療所のような小さな病院になってしまった。あと、そのほかの昔からのいろいろな施設があったが、今は維持することができなくなった。

大都市にはならなくてよいが、このひとつの鎮を、また歴史のある鎮を、もう始皇帝時代の前から存在していた、陳勝・呉広の一揆がありましたね、あの、最初手に入れた県は私の故郷(?)です。あのころは県でした。魏晋南北朝時代は郡でした。それからは大きな発展はなかったが、私の子供のころより昔の建物等も残ってました。しかし、今は建物ものこっていません。それが、私の故郷だけだったらまだ良いのですが、この現象は恐らく中国全体に広がってしまっています。それは大問題です。

やはり農村が空っぽになってくるということだ。中国の場合は大農制に切り替わってくる。その点でそうなるとまた変わってくるのではないか、最近は機械化で農業が大規模にやっています。農業を機械で大規模に行っている。やはり例えば機械修理とか、農産物の集積とか、修理とか、まあそれに従事する人たちが住ところとかね、そういう点がでてくるんじゃないですかね。やはり中国の農業が過渡期だということではないでしょうかね。

農村が空っぽになってしまってという時期です。平らな土地ですから、大農制の機械化には適しています。しかも、農民も自ら組織化しています。収穫のときは、機械を持っているひとは、あちこちに行き、収穫が頼まれているところに行くことになります。故郷は今は一番困難な過渡期ですね。とても時間がたってですが、良くなれば良いと願っています。

冬の車窓からの密かな楽しみ

2017.1.25
総合政策学部 講師  石田 裕貴

冬のよく晴れた午前中、仙台駅から東北新幹線に乗車して東京に向かうとき、小さな個人的な楽しみがある。宇都宮駅から大宮駅に向かうあたりの右側の車窓から雪をまとった富士山が見え始めるのだ。東京駅に近づくころはビルとビルの合間からちらちら見える。周りの乗客は誰も気にしていないようだ。私は一人その姿を見守る。

左右対称に均整が取れ、裾野の長いきれいな円錐型である。周りにさえぎるものが何もない独立の峰はひたすら雄大である。真っ白な雪に覆われた山容は澄み切った青空にひときわ映え、そのコントラストが美しい。陽に照らされて光り輝く姿は神々しくもあり、決して見飽きることがない。

名古屋で大学生活を送っていたときに所属したワンダーフォーゲル部では、毎年の夏休みの山行合宿で日本アルプスを縦走した(ワンダーフォーゲルとはドイツ語で「渡り鳥」を意味し、19世紀末にドイツで始まった渡り鳥のように山野を歩き回りながら、心身を鍛錬することを目的とした青年運動のことである)。夏合宿では、2週間分の食料、テント、寝袋などを詰め込み、30kg余りの重さと自分の頭をはるかに超える高さに膨れ上がった登山用ザックを背負い、7人ほどのメンバーとひたすら歩き続けた。わが部では、北アルプスと南アルプスで交互に夏合宿の山行ルートを計画するルールがあり、私の代は大学1年と3年の二度、南アルプスであった。

南アルプスは富士山との距離が近いので、夏合宿の行程は常に富士山とともにあった。雲や他の山陰に隠れることもあったが、富士山の姿を見つけるたびにみんなで歓声を上げた。疲労が蓄積し、単調な山の生活から恵まれた下界の生活が懐かしくなる合宿の後半では、いつ見ても変わらないどっしりとした雄姿に励まされた。だんだん遠くに小さく見える富士山は、歩いてきた距離を実感させ合宿を無事に終えられるという喜びと達成感を表すわけだが、同時に一抹の寂しさを覚えさせるものでもあった。

富士山は日本一の高さを誇る偉大な山であると同時に、私にとっては大学時代の思い出を喚起させるものである。大学卒業以降、山からまったく遠ざかっている今では単なるノスタルジーにすぎない。こんな私的な話とは関係なく、冬のよく晴れた午前中、東京行きの新幹線に乗る機会があるなら、是非右側の車窓からただただ美しい富士山を眺めて欲しいと思う。

夢は故郷をかけ巡る-花泉歴史散歩

2017.1.12
総合政策学部教授 貝山 道博

昨夏の暑い最中、幼友達の葬儀に参列するため、久し振りで故郷「花泉(はないずみ)」(現在の岩手県一関市花泉町の中の旧花泉村)を訪れた。葬儀が執り行われたお寺は丘陵地にあって、広々とした田園を挟んだ向こう正面に母校花泉小学校を望むことができた。そのとき、小学生の頃よく登って遊んだ学校の裏山(海抜89m)が何故か非常に大きく見えた。

そのことが気になったので、家に戻りすぐにインターネットで調べてみたところ、思いも寄らないことが続々出てきた。あの山にはかつて「二桜城(におうじょう)」と呼ばれた城があった。そう言えば、皆が「館山(たてやま)」と呼んでいた。小学校の生徒会名は「二桜生徒会」であった。その他にも思い当たる節がいくつかある。

二桜城の謂れには次のようなものがある。

<その1> 延暦年間の796年から802年の頃、陸奥按察使・陸奥守・鎮守将軍(延暦15年(796年)就任)及び征夷大将軍(延暦16年(797年就任))としての坂上田村麻呂が、陸奥の奥六郡(今の岩手県の南部・中部地方)を支配していた母禮(モレ)・阿弖流為(アテルイ)と戦った時の陣所、弘仁2年(811年)その後を継いだ征夷大将軍文室綿麻呂(フンヤノワタマロ)の陣所でもあった。坂上田村麻呂が仏殿を寄進した京都の清水寺には、母礼・阿弖流爲の慰霊碑(1994年岩手県の有志が建立)がある。

<その2> 文治年間(1185年~1190年)の頃には、奥州藤原氏の家臣照井太郎高春の居館であった。照井太郎高春は、奥州の都平泉一帯の用水路「照井堰用水」の開発者である。現在、一関市の「照井堰」は、「安積疎水」(福島県郡山市・猪苗代町)、「長野堰」(群馬県高崎市)、「足羽川用水」 (福井県福井市) 、「明治用水」(愛知県安城市、岡崎市、豊田市、知立市、刈谷市、高浜市、碧南市、西尾市)及び「満濃池」(香川県満濃町)とともに、インドのニューデリーに本部を置く「国際かんがい排水委員会(ICID)」に「世界かんがい施設遺産」登録を申請中である。

<その3> 延暦2年(1309年)葛西清秀は本吉郡大谷郷から陸奥国磐井郡流郷清水村に移り住み、二桜城を築いて、「清水」(しみず)を称した。その後清水氏が代々住んでいた。奥州葛西氏本家の居城は石巻市日和山の石巻城にあり、室町末期には登米町の寺池城に移ったと言われている。葛西清秀の祖、葛西清重は、文治5年(1189年)の「奥州征伐」の功で源頼朝から胆沢・江刺・磐井・気仙・男鹿・本吉の諸郡を得た。その子孫は登米・桃生群も併せて領した。今の宮城県北東部と岩手県南部一帯が葛西家一族の領地であった。言うまでもなく、清水家は葛西家の分家筋になる。

<その4> 天正18年(1590年)の豊臣秀吉の「奥州仕置」により葛西家が亡びると、清水氏も城を去った。葛西家の遺臣たちは御家の再興を願い、門前にサイカチの木を植え、同志の目印としたとされている。「カサイカツ」を合言葉に再起を誓ったとのこと。そう言えば、当時住んでいた我が家の近くにある大百姓家さんの門前にサイカチの大木があったのを覚えている。

<その5> 伊達正宗が今の宮城県全域及び岩手県南部を領有してからは、正宗の叔父で留守家の当主留守政景(政景は留守家の婿養子)が文禄年間(1592年~1596年)二桜城に住んでいた。留守政景は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、伊達政宗の命により伊達軍総大将として、上杉景勝の攻撃を受けていた最上義光の救援に赴き、撤退する上杉軍を率いた直江兼続と交戦した(山形では有名な「長谷堂城の戦い」)。後に政宗より伊達姓に復することを許され、慶長9年(1604年)一関2万石を与えられた。一関城を居城としたが、3年後59歳で死去した。

<その6> 伊達騒動で有名な伊達兵部宗勝(正宗十男)が一関藩主であった頃には、二桜城はすでになくなっていた。留守家が一関から金ヶ崎(今の宮城県栗原市金ヶ崎町)に所替えになった時の1616年に廃城になったと伝えられている。ちなみに、伊達兵部宗勝失脚後、正宗の正室愛姫(めごひめ)の実家(福島三春の田村家(ルーツは坂上田村麻呂との伝えあり))を継いだ田村建顕(宗永)が延宝9年(1681年)に岩沼より移封された。田村建顕は元禄赤穂事件(元禄14年(1701年))で刃傷事件を起こした赤穂藩主浅野内匠頭長矩を藩邸に預かり、丁重な扱いのもと立派に切腹させたことでも知られる。

花泉小学校の裏山「館山」(たてやま)は現在では清水公園(所在地は一関市花泉町花泉字上館)として整備され、住民の憩いの場となっているようである。当然桜の名所でもある。私がいた頃(半世紀以上も前になる)は天辺に八幡神社があるだけであった。神社の北側下方に花泉の地名の由来となった湧水「花立泉」(かりゅうせん)があるのだそうだ。当時はそんなことも知らなかった。

この城は清水氏が住んでいたからか、「清水城」とも呼ばれたそうであるが、かつて城下町であったと思われる地域(部落程度の集落)を今でも「清水」(しみず)と言う(館山の湧水に因んで「清水」だという説もある)。しかも住所は何と字「町(まち)」である(例えば、私の友人の住所は、「岩手県一関市花泉町花泉字町」)。ちなみに、この字町から江戸時代に算道家・和算家として活躍した千葉胤秀(1775年-1849年)が出ている。千葉氏のルーツも源頼朝の奥州征伐後今の千葉県から今の宮城県や岩手県に移り住んできた東国武士だ。千葉氏の名前に「胤」がつくのが貴種だと教わったことがある。そう言えば、高校の同級生の千葉良胤君はお公家様のような容貌をしていた。

現在花泉町の中心市街地は館山から遠く離れたJR花泉駅の周辺にある。館山に上ると、花泉駅を含め旧花泉村の全貌を掴むことができた(花泉町は昭和30・31年花泉村を含む7つの村が合併してできた)。城を築くには格好の場所だったことがわかる。

館山の麓を宮城県栗原市金成(かんなり)町(源義経を支えた「金売り吉次」の居館跡と伝えられている古社金田八幡神社がある町。井上ひさしの『吉里吉里人』にも登場)から発する「金流川(きんりゅうがわ)」が流れている。金流川沿いの一画には「金森(かなもり)」という部落があり、そこには「小金森(こがねもり)」という名字の人が何人か住んでいた(「小金森は岩手県一関市花泉町花泉の小字の金森から発祥。同地にいた神主が金を少ししか持っていなかったことから「小」の字を冠したと伝えられている」『日本姓氏語源辞典』より)。館山及びその周辺には、「歴史」の痕跡が多くある。

子どもの頃の遊び場でしかなかった小学校の裏山がかくも沢山の歴史を抱えていたことに驚いている。そこはまだまだ多くのことが秘められていて、ミステリー・ゾーンのように思える。近いうちに館山及びその周辺を探訪し、歴史の痕跡を一つ一つ辿ってみたいと思っている。

2017年は東北の食材が広がる年に

2016.12.29
総合政策学部教授 矢口 和宏

もう数か月前のことであるが、昨年の10月下旬に、北海道の函館で私が所属している学会が開催された。この学会は、例年春に国内大会を行い、秋には国際大会を開催する。そのため、このたび参加したのは国際大会であり、外国人研究者も数多く参加した。通常、学会はテーマを定めたシンポジウムや研究者による研究報告が行われる。研究に関係することだけではなく、期間中には夕食を兼ねた懇親会が開催されることも多く、今回の学会でも1日目の夜に懇親会が開催された。

懇親会のテーブルには函館で獲れた海産物を用いた料理が出され、それはたいへん美味なものであったが、一番人気のあったメニューは青森産の日本酒であった。まさか函館で青森の日本酒が卓に出されるとは思わなかったが、多くの研究者が試飲している様子がみられた。特に、外国人研究者が興味深そうに試飲している姿は印象に残るものであった。いまや外国人が箸を使って日本食を嗜む姿は当たり前のようになってはきているが、外国人がワインの代わりに日本酒を嗜んでいる姿は興味をひかれるものであった。

近年、和食がユネスコの無形文化遺産に登録されるなど、世界的な日本食ブームが起きている。それと同時に日本酒に対する評価も高まっており、日本酒が高級白ワインと並べられるようになってきている。そのことをふまえれば、私が懇親会の場で見た姿は珍しいものではないかもしれないが、日本酒、特に酒どころ東北の新しい発展形をみたような気がする。実際、その様子は統計からもみることができる。

国税庁仙台支局によれば、東北の清酒輸出免税数量を公表しているが、それによれば、1999年度の輸出免税数量は116キロリットルであったが、7年後の2006年度には500キロリットルを超えた。その後も輸出免税数量は増え続け、2013年度には940キロリットルとなっている。東北地方の多くの経済統計は、震災の年に大きな減少を伴うものが多いが、清酒輸出免税数量は2012年度に一時的な落ち込みはあったが、増加傾向が続いている。

さらにその学会では、青森つながりで、青森リンゴの人気についてもいい話を聞いた。台湾からきた研究者が言うには、台湾国内において、青森りんごの大きさ、色、味、形の評価は高く、贈答用商品として人気が高いという。北海道にいるのに、なんで青森の話題になるのだろうと不思議な感じがしたが、東北の食材の広がりを実感する機会となった。

昨年は、8月末の台風10号による水害や、いまだ続く原子力発電所事故に関わる福島県出身者へのいじめなど、東北地方にとっては厳しい年であった。そんな状況でも震災からの復興は進めていかなければならないのはいうまでもない。日本酒やリンゴは小さな突破口からもしれないが、それらを通して東北の食の安全性を内外にアピールし、2017年は東北の食材がより広がることを祈っている。

『大学』

2016.12.15
総合政策学部教授 文 慶喆

大学に入って間もない頃である。当時大学一年生の教養の一つには「大学国語」という必修科目があった。「大学国語」で使う教科書は、伝統のある規模の大きい韓国の大学ではその大学の出版会から出されたオリジナルの本を使っていた。内容は古典から近・現代の文学作品や国語では漢字併用論の正当性等が組まれていた。「漢字併用論」はこの大学が韓国の中心的存在だったので特に強調していた。

教科書には古典の一つとして『大学』の紹介があった。先生はこの『大学』を教えながら、大学生である皆さんは『大学』を理解し、読まないといけないことを言った。

この話を聞いて私は思わず笑ってしまった。なぜなら中国の四書の一つである『大学』と教育機関である「大学」は全く関係がないからである。勿論「大学」が学問をするところであり、学問を通じて人間形成をするところだとすれば、共通点がないわけでもない。しかし、私が笑ってしまった理由には『大学』に対する自分なりの優越感があったからである。私は不幸にも韓国の辺鄙な田舎で生まれた。小さい頃、周りには教育を受ける機関はなかった。そのため、取りあえず漢文を習うことにした。最初に習ったのが『千字文』だった。毎日漢字を筆で書きながら丸暗記するのである。この『千字文』を一か月位で全部覚えた。「天地玄黄」から始まる四字熟語を一日「九文」位覚えれば良かったので子供でも難しくはなかった。次に丁度『小学』に入ろうとした時に、小学校に入ることになった。しかし、期待をした小学校では漢文を全く教えてくれなかった。中途半端で漢文の勉強を止めた私は自分一人で漢文の勉強を続けるしかなかった。

このような事情で私は大学に入る前に『大学』を一読したのである。先生が授業で大学生だから読むべきだという『大学』は、昔なら小学校高学年の年齢でマスタする本であった。特に、韓国では科挙の試験を受ける為の最高のテキストであって、いまの大学で、大学生が勉強する本ではなかった。当時の科挙の受験生は、朱熹が注釈した『大学章句』を猛勉強していた。

『大学』の根本は自分の能力を啓発し、世の中の人を新しく変化させ、最終的には世の中を新しく作ることにある。その大要として「三綱領」、「八条目」がある。三綱領は、「明明德」、「親民」、「止於至善」である。明徳を明らかにする、「親民」は後で「新民」と訳して民を新しくする、至善に止まる、これが三綱領である。八条目は、「平天下」、•「治国」、「齊家」、「修身」、「正心」、「誠意」、「致知)」、「格物」である。これを小さいことからすると、物事が分かると(格物)知に至り(至知)、知に至ると誠実な心になり(誠意)、誠実な心になると、心が正しくなり(正心)、心が正しくなると体の修練になり(修身)、体の修練になると家をととのえ治めることでき(齊家)、家をととのえ治めることできると国を治めることができ(治国)、国を治めることができると天下を平定すること.ができるのである(平天下)。

この『大学』が日本にも大きな影響を与えたのは言うまでもなく、「明徳」の名や「修身」等からでも窺い知ることができる。特に「荻生徂徠」は十年間もひたすら『大学』だけを読み、独自の「古文辞学」の立場から朱熹の『大学注釈』批判した。その結果、自らの「徂徠学」の正しさを確立し、『大学解』という新しい注釈書を書いた。『大学』の著者は「曾子説」と「子思説」があるが、朱熹の『大学章句』のよって根幹を構築し、荻生徂徠の『大学解』によって新しい世界を開いたのである。

時は愛なり

2016.11.30
総合政策学部教授 三木 賢治

大学に入ったばかりの頃だったか、ラジオの深夜放送が流行っていた。御多分に漏れず、ひいきのパーソナリティーの番組を楽しみにしていたが、ある晩、読み上げられたリスナーの女子大生からの投書が忘れられない。

私は絶対に夫たるものを台所に立たせたくない。台所に立つような男を軽蔑する、という強烈な主張だった。昨今は夫婦で家事を分担するのが当たり前になったが、半世紀前には家事は女性の仕事と決めつける考え方が支配的だった。女性の地位向上のために男性も台所仕事を担うべきとの声が出始めてもいたが、彼女は異を唱えていた。

自分の時間が何よりも大切だからだ、というのである。家事よりもっと大切な仕事があるはずで、私以上に自分の大切な仕事を愛し、誇りを持ち、自分の全力をそれに傾ける人でなければついて行けない。彼女はそう述べた後、「自分の時間を奪われたくない私が、どうして、自分よりも時間を大切にする人の時間を家事のために奪うことができようか」と結んでいた。時間を有意義に使う人のために、自分の時間を捧げたいという願望とも映った。

時間が大切という点には共感したが、手ごわそうな女性だな、というのが率直な感想だった。食器の跡片付けや鰹節を削ったりする程度の手伝いはしてきただけに、台所に立つことに抵抗感はなかったから、台所仕事を時間を無駄のように言うことが奇異にさえ思えた。このような女性と結婚したら、家庭は安泰だろうが、寸秒も疎かにできずに肩が凝りそうだとも感じた。

義姉が末期がんに冒されたとき、義兄は妻のために毎朝晩、懸命に漢方薬を煎じた。漢方薬で痛みは幾分和らいだ様子だったが、命を救えはしなかつた。それでも、義兄には愛妻に時間を捧げ得た喜びがあったように感じられた。

時は金なり、ならぬ愛なりである。人を愛するということは、とどのつまりは自分の大切な時間を相手に分け与えることになるのではないか。デートをするにも、家庭を設けて寝起きを共にするにも、どこかで自分の時間を削らねばならない。そこに不満を感じていては、愛は成り立たない。男にせよ女にせよ、互いの時間を大切にするのならば、家事を分担しても苦にはなるまい。

女子大生の意見は極端だが、本質を衝いていたのかもしれないと、今になって思う。いずれにせよ、漫然と時間を浪費してきた身としては、来し方を恥じ入るばかりである。

回り道も、良し

2016.11.16
総合政策学部准教授 増井 三千代

今月初め、イギリス人講師と寝食を共にしながら、英語漬けの時間を過ごす「English Boot Camp」を実施した。これは、海外や留学に興味はあるが、なかなか一歩が踏み出せない学生に、擬似海外生活を体験してもらうプログラムである。野外炊飯をしたり、夜遅くまで互いの国や文化について語りあったり、翌日には色鮮やかな紅葉を眺めながらの足湯も体験した。参加した学生たちは、終始積極的に交流を図り、修了式では一人一人がイギリス人講師に向けて心からの感謝を英語で述べた。

海外に対して、学生たちの関心が目に見えて高まった要因は、学生と年齢の近いイギリス人講師2名の活躍に依るところが大きい。彼らは1967年に設立されたイギリスの国際ボランティア機関「Project Trust」から東京の私立中・高等学校に1年間派遣されているボランティアである。この「Project Trust」は、イギリス国内の17~19才の中等教育修了者を対象に厳しい選考、研修を行い、毎年300人ほどの教育活動支援を行うボランティアを世界各地に派遣している。中でも、日本は渡航先として大変人気があるため、厳選された優秀なボランティアが派遣される。

実は、彼らの多くは大学入学許可を有している。高校卒業から大学進学までに1年間の猶予(=gap )を与える「ギャップ・イヤー」制度を利用して海外で見聞を広め、帰国後大学に進学する。ギャップ・イヤーを経験した学生は、非経験者の学生と比べて、就学後の学習意欲や成績が高いと言われている。イギリス発祥のこの制度は、近年、世界中で広く認知され、2015年、日本でもついに文科省が補助金交付を行い、対象となった12の大学で、ギャップ・イヤー制度を導入する試みが始まった。

個人的にはこの制度が日本でも慣習化されることを大いに期待している。なぜなら、私のゼミ生A君が身をもってその効果を証明してくれたからだ。A君は4年に進級する直前の3月に、私の研究室に突然現れ、「海外に行きたいので1年間休学したい」と申し出た。他のゼミ生が必死に就活に取り組んでいたこともあり、「現実逃避では?」という複雑な思いを抱えながら、休学を受け入れた。それから、A君はアルバイトをして渡航費を稼ぎ、数か月間語学留学をした。4月に復学したA君は、1年後輩のゼミ生たちと共に就活を始めた。留学経験を活かし、国際色豊かな職を選択するものだとばかり思っていた私の期待は、またもや裏切られた。突然、「地元で公務員になりたい」との連絡があった。

English Boot Campの前日、A君にとって最後の機会となる公務員試験の面接練習に付き合った。数日後、A君から合格を知らせるメールが届いた。そこには、「今回の試験に限らず、毎度、自信を持って就活に取り組むことができたのは、先生のおかげです」との言葉が添えてあった。

あぁ、私も留学という回り道をした学生だったのに、いつの間にか近道が正解だと思っていたなんて……。A君、あなたがギャップ・イヤーを選択したことに、改めて心からの敬意を表したい。

あなたにとって水路とは何ですか。

2016.11.1
総合政策学部准教授 馬内里美

「国見テラス」は、リレーエッセイであるが、前の内容を受けて書く必要はない(と思っている)。だが、テーマは「水路」、さらに科学技術学部の八十川准教授が案内役を務めた点でも共通している。バトンを受け継ぐ、といえば、リオ・オリンピックでの男子リレーだが、ケンブリッジ飛鳥選手ならぬバッキンガム歩亀で、前作の力走からたちまち失速してしまううえ、水物だけに内容も薄くなるのもご容赦願いたい。

九月に、堀DAYさんぽ堀なか歩きに参加した。高砂堀のなかを歩く貴重な体験ができることもあり、参加者も多く、地元のテレビ局も取材に来ている。

高砂堀は一度だけ見に来たことがある。百年前の仙台の地図と現代の地図を並べた『仙台地図さんぽ』の宮千代地区のページを参考に、古くからある道を辿った。地元の郷土史研究会の方々が有志で橋上に設置した堀の説明板、古地図では歩四センタクバと書かれている護岸にある日露戦争の「戦役紀念」碑、地名の由来である宮千代の碑を見て歩いた。

非灌漑期に入り、水は浅く、底もコンクリートで平に覆われているので比較的歩きやすい。橋下の護岸壁の古い石積は、古くからある橋の証拠だろう、と推測するのは楽しい。八十川先生の詳しい説明により、湧き水付近で小さな魚を見つけることができた。下流では上から眺めただけだが、魚が群れを成して威勢よく泳いでいるのには驚いた。

帰りがけにテレビ局の取材班からインタビューされ、感想を述べた後、更に尋ねられた。「あなたにとって高砂掘とは何ですか」

二度目の私に聞くのはお門違いだと思いながら、口から出るに任せて話した。その時になぜか思い出されたのは、一時期私の日常の一部になっていたどぶ川であった。地図によるとバッキンガム運河という名前である。当時は、澱みの臭いに閉口しながら、名前と現実の姿のギャップを面白がるだけだったが、後年調べてみると、距離も長く舟も行き交う運河だったそうだ。

人びとが生活するためには水の確保が不可欠である。生活を成り立たせる水は恵みである。水路は生活の基礎であり、人々の営みの歴史がある。しかし、時として水は暴れまわる。何度も水害に見舞われながら、人々は水路を整備してきた。特に岩手県沿岸部の台風被害も記憶に新しい今、その力に改めて畏怖を覚えると同時に、人々の努力に頭が下がる。

本当はそんなことを言いたかった。出任せのコメントは放送されないと確信していたが、放送されたそうだ。水に流してしまいたい。

木の声、土の歌(10)

2016.10.15
総合政策学部教授 秡川 信弘

華々しさばかりが脚光を浴びる御時世である。だが、見落とされがちな身近な事象に目を向けることから学ぶ意義を見出すこともあるのではないだろうか。

本学四号館の傍らを流れる小川のような水路があるのをご存じだろうか。その流れに沿って下ると謎めいた分岐点にたどり着く。一方は道路の下を通って踏み切り付近の水路につながるはずだが、もう一方の流れる先が不明であった。先日、Eサポ里山探検セミナーに参加し、その謎がようやく解けた。仙山線を伏越(ふせこし)流下し、簡易舗装された本学駐車場の地下で下流水路につながっていたと考えられるのである。

つまり、その水路は大正15年(1926年)に始まる仙山線敷設工事に際し、下流域水田に引水するために線路下を伏越施工されたのであろうが、減反政策が始まり米価が頭打ちになる1970年代以降、次第にその存在意義を失っていったものと推測される。その後、国見駅が昭和59年(1984年)に開業する。仙台駅へのアクセスが改善された下流の水田地帯が新興住宅地へと変貌していく中で、謎の水路は農業用水路としての役目を終えていったのであろう。

昭和22年(1947年)に米軍が撮影した航空写真から確認できる国見の里山景観を想起させてくれる菊地家の棚田は私にとって貴重な憩いの空間である。田植えを終えた棚田の風景はまことに清々(すがすが)しく、6月に小学生たちの自然観察会が行われる様子はかつての農村のにぎわいを思い起こされてくれる。国見駅の正面に鎮座する水路分岐はそのような物語をずっと見つめ続けてきたのだろう。

探検セミナーに学んだ私は担当科目「環境論入門」でキャンパス周辺里山の散策授業(青空講義?)を実施した。まず、棚田とため池を眺めながら裏山を登り、大学駐車場に到る。次に、里山の谷筋跡を観察し、里山の現代的利用の一例であるラピュータ国見を迂回して本学第二校地(運動公園)に到る。そこから里山景観を味わいながらランドマークのNTT鉄塔、仏舎利塔、弁財天、浄水場を回るコースであり、散策後、受講生には本学周辺の里山利用に関するプレゼンをしてもらった。

後日談であるが、伏越工法が江戸時代初期に開鑿された四谷用水の第四隧道に使われていたことを知り驚かされた。四谷用水に盥(たらい)を浮かべて遊んだ経験を持つ方から聞いた話によれば、地元(八幡町)では誰もが伏越隧道出口の「湧き上がり」を知っていたという。それにしても、四谷用水を設計した川村孫兵衛や普請奉行を務めた宇津志惣兵衛は脆弱な凝灰岩層を避けて湾曲した隧道を掘り進め、伏越工で砂礫を除去して浄水を得るという斬新なアイディアを生み出す創造力や先端技術をいかにして身に付けたのだろうか。

時あたかも四谷用水の通水復活に向けた活動が始まるという。江戸時代の自然公園ともいえる水源の里山「国見」に位置する本学は、かつての伝統的な暮らしや文化の復元を地域貢献活動のテーマの一つに組み込んでもよいのではないかと夢想する今日この頃である。

Kさんの講演

2016.9.30
総合政策学部教授 永澤雄治

学部生の頃、学生主催の講演会に関わったことがあった。政治思想史の故藤田省三さん、『アサヒジャーナル』の編集長(当時)の故筑紫哲也さんなどと講演会の前後に話をする機会を得たのは貴重なことだった。

中でも一番印象に残っているのがKさんのことだ。今では思想家として欧米でも認知され、言語と貨幣に関する代表的な著書を始めとして英語や独語の翻訳も出版されているが、当時は気鋭の批評家という位置づけだったと思う。

講演会をお願いしたのは、雑誌『現代思想』に連載されていた「形式化の諸問題」が終わった頃だったろうか。当時Kさんが教壇に立っていたH大学の事務局に電話し、講演会にお呼びしたいので電話番号と住所を教えて欲しいとお願いした。今なら考えられないが、30数年前で個人情報など大して気にする時代ではなかったため、あっさりと教えてもらえた。早速その晩に公衆電話からご自宅にかけると、英文学者で翻訳家でもあった奥様が出られ、Kさんの書斎につないで頂いた。私は緊張しながらも、講演会をお願いしたいことと謝金は交通費+αしか差し上げられないことをお伝えした。その場では保留されたが、再度連絡した際には快くお引き受け頂いた。

当日は駅でお迎えし大学にご案内した。講演会の教室まで歩く間に、「自然生成」概念について熱心に説明して頂いたが、全く理解できなかったことだけはよく覚えている。講演会が始まると、Kさんはタバコを取り出されお吸いになりたい様子だったので、灰皿を探して構内を走り回り、ある先生の私物を借りて講演会の教室に戻ったりもした。講演会の後、構内の生協食堂で簡単な会食の時間を設けたが、その際、Kさんは小学生のお子さんが学校で一言も話さないこと、実は自分も小学校の低学年時代に同じ症状だったが、新学年になり隣の子から話しかけられ思わず返事をしてしまい、その後は普通に話をするようになったことなど、現代思想とは関係ない私的なこともビール片手に話されていた。大学時代の楽しい思い出の一つである。

ゼミ生たちの一夏の冒険

2016.9.15
総合政策学部准教授 立花顕一郎

前期の授業ももうすぐ終わりという7月中旬、私は3年生のゼミ生3人と一緒に近所のドーナツ屋さんに出かけた。いつも使っているゼミ室とは違って、明るい照明とドーナツの甘い香りが漂う店内はリラックスした雰囲気で、ゼミ生たちは半年後に始める就職活動についての作戦会議を始めた。しばらくの話し合いの後、A君がふと、「道の駅のようなところに店を出して経営してみたい」と言い出した。それを聞いて、私は以前読んだ『Green Neighborhood:米国ポートランドにみる環境先進都市のつくりかたとつかいかた』(吹田良平著、2010年、繊研新聞社))という本のことを思い出した。

その本によると、オレゴン州最大の都市ポートランドはアメリカ太平洋岸のワシントン州とカリフォルニア州との中間に位置し、「全米で最も環境に優しい都市」、「全米で最も美味しいレストランが集まる都市」、「ベストデザイン都市全米第5位」などに選出されて、最近、脚光を浴びているという。特に、1992年以来、ポートランド市内5か所で毎年3月から12月にかけて開かれているファーマーズ・マーケットは、今では年商600万ドル(約7億円)に達する一大イベントになっているそうだ。なかでも、最大規模のマーケットは、毎週土曜日にポートランド州立大学で開かれていて200を越す出展者とそれを目当ての客で大盛況らしい。これらのファーマーズ・マーケットを運営しているのがPFM(ポートランド・ファーマーズ・マーケット)である。

この本の内容をかいつまんで話してから、私は半ば冗談で、ポートランド州立大学にファーマーズ・マーケットを見学に行って、可能ならボランティアをやらせてもらってPFMからノウハウを学び、帰国後に我々の大学でもファーマーズ・マーケットを始めてみたら面白いのではないかとゼミ生たちにけしかけてみた。すると、思いがけない返事が返ってきた。3人揃って、「ぜひ行ってみたい、しかもこの夏休み中に」と言うのである。今まで、歴代のゼミ生に機会があるたびに海外でのチャレンジをけしかけてみたが、昨年までは、在学中に、しかも教員の助けなしに、海外に行ってみようというゼミ生は一人もいなかった。ところがである、今年はなぜか一挙に3人も夏休み中にアメリカに行ってみると言い出したのである。よし、それならば、出発前にサバイバル英語の特訓をやってやると私も大いに乗り気になった。彼ら3人のポートランドへの冒険の旅はこのようにして実現に向けて歩み始めた。

翌週のゼミでは、3人で英語のメールを作成し、PFMのホームページからボランティア募集コーナーを見つけて、そこにメールを送信した。さらに、飛行機とホテルの宿泊料金をネット上の旅行斡旋サイトで検索してみた。すると、8月は中旬まで料金が高いけれども最終週にはかなり値下がりすることが分かった。そして、数日後に、ついにPFMから返事が来る。マーケット・マネージャーのアンバーさんがシェマンスキー市場でインタビューに応じてくれるという願ってもない内容のメールだった。3人はこのメールに勇気づけられて、いよいよアメリカ行きの手続きを本格させることになった。しかし、それはその後に待ち受けている大小様々なトラブルの連続攻撃襲来へとつながっていくのであるが、この時点では3人はまだ知る由もなかった。

最初にやってきた大きなトラブルは、ESTAというアメリカの電子渡航認証システムへの手続きを忘れていたということだった。事前に必ずESTAを手続きしておくようにと私から何度も言われていたにもかかわらず、出国1週間前になっても手続きをしていなかったのである。彼らが私からこってりと叱られたのは言うまでもない。

その他にもトラブルを数え上げたらきりがないので全ては紹介できないが、最後にゼミ長であるC君のアメリカ冒険初日のエピソードを紹介させて欲しい。8月最後の日曜日に颯爽と成田空港に現れたC君を含む3人のゼミ生は、航空会社のチェック・イン・カウンターで予想もしなかったトラブルに見舞われた。なんと、C君の航空券に記載されている名前の英文表記がパスポート上のつづりと違っていたために、予定していた飛行機への搭乗が認められなかったのだ。そこで仕方なく、C君は当初予約していた航空券をキャンセルし、他の二人とは違う飛行機で5時間遅れて出発することになったのだ。つまり、彼は生まれて初めての海外旅行が一人旅となったのであり、しかもポートランド空港への到着が夜の10時半頃というとても心細い状況になってしまった。そのうえ、空港から宿泊予定のホテルまではバスと路面電車を乗り継いで1時間もかかるし、特訓した英語も実地で使うのは初めだったので、どれくらい通じるか不安だったのである。

C君は初日のこの大ピンチをどうやって乗り越えたのだろうか?実は、C君以外の2人は予定通りに夕方6時半頃にポートランド空港に到着し、バスと路面電車を乗り継いでホテルにチェックインした後、再び1時間をかけてポートランド空港に戻り、C君を出迎えたのであった。私はこの話を聞いた時にとても感心すると同時に嬉しくなった。彼らがアメリカ冒険の初日に得たものは、私の予想をはるかに超えていた。残念ながら、紙面が尽きたので、この話の続きは別の機会にお話しすることにしたい。

大逆転のドラマ

2016.8.31
総合政策学部准教授 河本 進

第98回全国高校野球選手権大会の決勝戦が8月21日に阪神甲子園球場で行われ、栃木県代表の作新学院が南北海道代表の北海を7対1で破り、深紅の大優勝旗を手にした。作新学院高校の全国制覇は八木沢荘六・加藤斌を擁して史上初の春夏連覇を達成した第44回大会以来54年ぶり2度目のことである。

「野球は9回2アウトから」とか「野球は筋書きのないドラマだ」とか、野球には「勝負は下駄を履くまでわからない」ことを表す常套句が数多く存在する。主題歌が高校野球の応援歌の定番として使われているアニメ『タッチ』の原作漫画の作者のあだち充は、高校野球をテーマとした別作品『H2』で、主人公の国見比呂(国見くんだったのですね!)が,劣勢のチームに加勢するために試合に参戦するシーンで

      「タイムアウトのない試合のおもしろさを教えてあげますよ(※)」

というセリフを使っている。野球には制限時間がないため、時間をコントロールする戦略が取れないのである。その結果、最後のアウト1つを取るまでは何が起こるか分からないゲームになる。これが野球のおもしろさでもあり、怖さでもある。

今年の甲子園でも2回戦の青森県代表の八戸学院光星と愛知県代表の東邦の試合で印象的な逆転劇があった。この試合は7回表終了時点で八戸学院光星が7点リードをしていたのだか、東邦は諦めずに徐々に追い上げていき、9回裏に5点を取って見事サヨナラ勝ちを収めた。また、大逆転といえば地方大会になるが外せない試合がある。それは、2014年の石川県予選決勝戦の星稜と小松大谷の試合である。この試合は8回終了時点で小松大谷が8対0とリードしていた。この試合は5回終了時点に既に8対0となっていたので、準決勝までならば7回終了時点でコールドゲームにより試合終了であったが、決勝戦であったために9回まで試合が行われたのである。星稜高校は8回まで2安打で完封されていたにもかかわらず、9回裏に最後まで諦めずに攻撃をして9得点を奪う空前絶後な逆転サヨナラ勝ちを収めたのである。不思議なもので、この対戦は翌年の準々決勝でも組まれて、今度は9回表終了時点で0対3とリードされていた小松大谷高校が9回裏に4得点を奪うサヨナラ勝ち、見事リベンジを果たしたのである。まさに筋書きのないドラマである。

このような大逆転のドラマを起こしたのは最後まで試合を諦めなかった姿勢である。学生諸君には、今は上手くいかないことがあったとしても、目標に向かって諦めずに取り組んでいって欲しい。

※ タイムアウトとは「スポーツの試合で、作戦や休息などのためにとる中断時間(広辞苑)」であるが、ここでは、タイムアウトを試合時間という意味で使っている。

ウズベキスタン紀行

2016.8.18
総合政策学部教授 貝山 道博
 

4年前、定年退職を記念し、中央アジアのウズベキスタン共和国を旅した。ウズベキスタンを選んだ理由は二つある。義父から旧ソ連によるタシケント抑留物語をよく聞かされていたこと、以前から繰り返し井上靖の『西域物語』(新潮文庫)を読み、中央アジア(特にサマルカンド)に憧れを持っていたことである。中央アジアに惹かれていたからこそ、義父の話がなおさら印象深く思えたのかもしれない。

義父が抑留者の一人として2年半過ごしたタシケント(ウズベキスタンの首都)はどういう都市なのか。日本人抑留者が建設した国立ナボイ劇場を見学してみたい。帰国できず現地で倒れた方々のお墓はどうなっているのか。亡くなった義父の代わりに墓参したい。13世紀初頭チンギス汗により徹底的に破壊された古代・中世都市のサマルカンドはどのような都市に生まれ変わったのか(私の頭の中には、絵でしか見ることができなかった、破壊尽くされる前の「緑のオアシス城郭都市」「シルク・ロード最大の交易都市」サマルカンドのイメージしかないのだが)。今回の旅行にはこんな目的があった。

インターネットで格安のツアー(7日間のホテル泊・毎日3食つき)を探し、早速タシケントに向かった。思いがけずツアー参加者は妻と二人だけであった。同じ飛行機には様々な団体が乗り合わせていたが、どれも30、40人程度の人数であった。安すぎて不人気だったのか少々不安であったが、心配は全く無用であった。専用のガイドさんとドライバーを抱えたようなものであった。ガイドはウズベキスタンの大学で日本語を学んだ人で、落ちを取るほど日本語を実に巧みに使いこなしていた。お陰さまで行く先々で他のツアー参加者に羨ましがられた。

行程は、タシケント→ヒバ→ブハラ→サマルカンド→タシケントである。タシケントからヒバへは飛行機と乗用車で、ヒバからブハラへは乗用車で(カラ・クム砂漠越え)、ブハラからサマルカンドは乗用車で、サマルカンドからタシケントはモスクワ行きの特急鉄道で移動した。

ヒバはウズベキスタンで最も古い佇まいを残す城郭都市であった。今でも城内に人が住んでおり、我々のホテルもバザールも城内にあった。基本的には砂と土のイメージで、決して綺麗とは言えないが、あるものすべてが長い歴史を感じさせるものであった。

ブハラは様々な遺跡(殆どはイスラム寺院・学校と廟(お墓))が残されており、中世を色濃く感じる都市であった。日本で言えば、京都のような町で、現代と中世がうまく混在しているように感じた。

サマルカンドは憧れのまちであった。殆どが近代的な建物で占められ、ところどころに素晴らしい遺跡が残っている。他の国の大都市と変わらず、道路はたくさんの自動車であふれ、混雑しているが、道路の街路樹(大木の並木)や住宅の庭にあるブドウー棚だけは、私の想うサマルカンドを感じさせる。バザールにも行ったが、ここは昔のままなのだろう。

とはいえ、ジンギス汗に破壊された都市はここにはない。旧サマルカンドは現サマルカンドの郊外の一角にある。チンギス汗に完全に破壊尽くされたので、その当時の遺構は発掘されなかったが、さらに掘り下げていくことにより、アレキサンダー大王に征服された当時(紀元前300年ごろ)の都市遺構を発見することができたので、13世紀初頭まではここにあったのだろうということである。今はアフラーシアーブ遺跡として保存されているが、訪れてみても、ただ草に覆われた丘陵があるだけで、思いを巡らせてみるしかない。それがかえってサマルカンドの悲劇を強く感じさせる。

タシケントはどこでも普通に見られる近代的都市であった。人口は200万人強で、仙台市の半分の面積で2倍の人口を抱えている。交通混雑もすごく、町の建物も殆どは近代的なものばかりであった。その中で国立ナボイ劇場はひと際異彩を放っている。これは日本人捕虜によって建設された。完成から20年ほどたった時、タシケントはM8の大地震に見舞われた。にもかかわらず、このレンガつくりの美しい建物はびくともしなかった。ちなみに、レンガつくりそのものも日本人の仕事であった。義父はもっぱらこの仕事に従事していたとのことである。ウズベキスタンの人々は日本人の技術に驚異し、それ以来親日的となったとガイドさんは言っていた。私たちが訪れたときは、あいにく国立ナボイ劇場は内装工事中で内部を見学できなかったが、外観を見ただけでも、その威容に圧倒される。

国立博物館にも行ったが、建物そのものはどこにでもありそうなものだが、中に納められている展示物が実に見事である。時間がなくじっくり鑑賞できなかったのが悔やまれる。

第2次世界大戦後、ウズベキスタンには約2万4千人が抑留された。粗悪な生活環境、苛酷な労働で、812人が収容中に亡くなられた。タシケントの日本人墓地には79名が埋葬されている。サマルカンドにも日本人墓地がある。どちらにも墓参することができたが、サマルカンドの墓地はあまり訪れる人が少ないのか、タシケントの墓地と較べると、手入れが行き届いていなかった。墓守を専門にする家族(見るからに貧しそうな家族)がおり、墓参者はその都度墓守にお金を渡して、墓の管理をお願いするそうである。ガイドに言われ、私もそうした。よく整備されていたタシケントの墓地とは好対照である。

訪問目的の1割も達成できたのであろうか。再訪を心に決め、タシケントを飛び立った。

小論文コンクール

2016.8.3
総合政策学部教授 小出 実
 

東北文化学園大学に4月に着任してもう4ヶ月が過ぎようとしている。少し前まで同じ建屋の中で、私の研究室から目的地まで行くのに迷っていたのが昔の事のようだ。

この大学では高校の担任のような小人数の学生指導をするためのSA制度を採用している。私が担当する学生は1年生と2年生を合わせると十一名となる。それは、専門基礎科目として学生生活に必要なアカデミックスキル等を習得する為の基礎ゼミの授業として実践されている。大学生と教員との距離を埋める画期的なもので、私か気に入っている制度の一つである。   

私が所属している学会の監事である先生から小論文コンクールの募集要項のポスターを頂いた。それは「科学的管理法の父」として著名なF・W・テイラーの「テイラー協会」を源流とする歴史のある世界的なマネジメント研究団体「SAM日本チャプター」創立90周年記念の懸賞小論文コンクールへの募集である。応募要領には「パソコンで打ったもの」2頁以内、賞および賞金に優秀学生賞5万円で3席となっている。最優秀賞は30万円で1席等があり、少子高齢化等に直面している日本企業の在り方について「私が経営者だったら、こんな企業や組織をつくる」というテーマの提案である。

これは、大学生のアカデミックスキルの材料に適していると思い、掲示板にもポスターを貼ってもらった。賞金が功を奏したためか、特に異議はなく私が担当するゼミ学生全員の十一名が取り組むことに決まった。小論文が初めての学生が多く書き方の図書を借りて小論文の基本構造を説明し、引用の仕方等を説明したりした。全員が真剣に取り組んでくれた。6月30日の消印有効の締切日はあいにく小雨の天候の中、学生の一人が大学の近くの郵便局までバイクで出しに行ってくれた。残念ながらこの最終便に間に合わなかった学生もいた。結局、十一名のうち六名の小論文を投稿することができた。

私が学生時代には感想文を書いたぐらいである。ましてや自分の主張を文章で発表したり、投稿したりした経験はほとんど無い。この小論文がゼミ学生の良い経験になってくれることを願っている。私の現在までの知識の収支を考えてみると大学卒業までは専ら知識のインカムという収入の一方で、アウトカムの貢献は、ほとんど無かったように思う。就職して実務者になって初めて発明や社内論文発表で知識の創造に少しずつ取り組んできた。最近ようやく遅まきながら研究者になれたように感じている。

これからは教員として知識のプロバイダーとしての自覚と責任をもって、学生と一緒になってやっていきたい。密かに一人でも入賞してくれることを祈っている。

災害救助犬との出会い

2016.7.20
総合政策学部教授 岡 惠介
 

以前、黒いラブラドール・レトリバーを飼っていた。ペットショップで買った、名前をチャコという明るい茶色の瞳の牝だった。仙台に転居する際も、苦労して大型犬可のアパートを見つけ、彼女と移り住んだ。

彼女は癲(てん)癇(かん)もちで、薬を飲んでも月に幾度か発作に見舞われた。発作は重く、涎を流しながら痙攣が続いた。誤って私の手を噛んだこともあった。我に返った彼女は私の手の傷を見て、すまなそうな顔をするのだった。あちこちの動物病院で診てもらい、いろいろな薬を試したが、なかなか発作は抑えられなかった。

とある動物病院に、珍しいポスターが貼ってあった。「あなたの犬も災害救助犬の練習をしてみませんか?」ラブラドールは、災害救助犬に向いた犬種だとも書いてあった。獣医は、「チャコちゃんも病気じゃなかったらね~」と残念そうに言った。健康ならば、そんな世界もあるのだな、その時はそう思っただけだった。

数年後チャコは、若くして亡くなった。犬のいない暮らしは物足りず、今度はイエローのラブラドールを飼いはじめた。イエローにしたのは、次にチャコに逢う時に虹の橋を駆けてくる彼女をすぐに見分けられるように、だった。

今度は健康な犬が飼いたいと、息子と那須のブリーダーまで幾度か通い、生まれたばかり子犬の中から、末っ子の小柄な牝を選んだ。息子が好きなアニメから、ルカと名付けた。

ルカが二才になる年の三月、あの震災がやってきた。早朝、小雪降る中をガソリンスタンドの列に並んだりしながら、悶々とした日々を過ごした。私は山村をフィールドとしてきたので、沿岸に知り合いは多くなかった。しかし、経世済民の学である民俗学者でありながら、何も役に立たない自分がもどかしかった。

そんな時期、犬は大切な癒しだった。ドッグランに連れて行ったルカが、ほかの犬たちとじゃれあって遊ぶ姿は「遊びをせんとや生まれけむ」という歌そのままで、気持ちが安らいだ。

そんなある日ドッグランで、ヒメという六才の牝のイエロー・ラブに出会った。飼い主さんから、彼女は災害救助犬で、被災地の捜索に行ってきたことを聞いた。

それまですっかり忘れていた、チャコと見たあのポスターを思い出した。飼い主さんからも「ルカちゃんもどう?」と勧められ、災害救助犬の訓練士を紹介してもらい電話をかけた。

この時から、ルカの災害救助犬修業がはじまったのだった。

パリの蚤の市

2016.7.4
総合政策学部准教授 大野 朝子
 

今から10年ほど前、観光でパリを訪れた際、思い切って、前から気になっていたヴァンヴの蚤の市に一人で行ってみることにした。まだ人影もまばらな週末の早朝、緊張感でコチコチになりながら、地下鉄で移動し、最寄り駅から少し歩くと、市場はすぐに見つかった。

いろいろな蚤の市がある中、ヴァンヴは「露店」のみで、青空の下、さまざまな商品がずらりと並んでいる光景は、迫力たっぷりであった。たくさんの人が集まる中、日本人観光客もチラホラ見かけたが、一番多かったのは、地元の年配の男性たちである。みな一様に空っぽの大きなビニールの買い物袋を下げて、左右の露店を交互に眺めながら、嬉しそうに広場をぶらついている。私自身も、遅れを取るまいと、彼らの後ろに続いたのだが、そのうち、私の目の前を歩いていた男性が、馴染みと思われる骨董商に大きな声で挨拶をし始めた。二人は久々の再会がよほど嬉しかったのか、両腕を大きく広げて、「おお〜」と抱き合い、なぜかやたらと盛り上がっている。映画のなかのワンシーンのようだ。

周りを見渡してみると、「年配の男性軍団」はすでにあちらこちらに散らばり、店主とやり取りを始めていた。みんなテンションが高い。「骨董市って、こんなに活気があったのか!?」と驚いた。

なにもかもが初めてで、雰囲気に圧倒されつつ歩いていくと、日本人女性が営む店もあった。すぐに自宅で使えそうなカフェオレボウルなどの食器が並び、とてもかわいらしい。その先を歩くと、フランス人が、なんと根付の店を出していた。根付は元来日本独自のもので、和装のときに帯に挟むマスコット、というイメージしかなかったので、蚤の市の小さなガラスケースのなかに、時代を経て渋い色になった根付がいくつも鎮座していたのには驚いた。店の周りには地元の客が集まっていたので、案外人気があるのかもしれない。

仙台市内の骨董市にもたまに覗きに行くのだが、自分の買い物よりも、なぜか毎回、周りの見知らぬ人の買い物が気になってしまう。骨董市に集まる人々は毎回だいたい決まっていて、みんなそれぞれのお気に入りを見つけるのに忙しそうだ。そして、なんとなくウキウキと楽しそうなので、近くにいると幸せのおこぼれがもらえるような気がしてくる。

ちなみに、パリの骨董市で私を魅了したのは、古い絵ハガキ専門店だった。まるでヴィンテージワインでも扱うかのように、一枚ずつ丁寧に仕分けされ、保管されているハガキの数々。裏側には、遠い昔、どこかの誰かが書いた上品で美しい筆記体の文字が並んでいる。自分の周りだけ一瞬時が止まったような気がして、独特の雰囲気に酔いしれてしまった。

陳其人先生への思い

2016.6.20
総合政策学部教授 王元
 

陳其人先生の講義を学部と院生時代に受けた。母校の復旦大学国際政治学部の11年間、学問の大半は王滬寧先生から授かり、研究生活の姿勢は王邦佐先生から教えていただいた。しかし、方法論は陳其人先生に啓発された部分が一番大きいのである。復旦大学「五大金剛」の一人で学部では「方法論第一」との評価が久しいが、『新資本論』を書こうとされ、文革中右派とみなされ、長い間埋没されてきた方である。
 

2008年9月、私は母校で講演した時、「陳其人先生が我々の学祖である」、との発言に教員達から熱烈的な賛同を得た。「学祖」というのは、其人先生は私の師の滬寧先生の指導教授であり、私はその学孫の世代であるからだ。
 

陳其人先生の学問の神髄は曰く「抽象のための捨象」である。中国人はよく「擺事実、講道理」(事実を並べて、道理を講じる)と言うが、事実(現象)は千差万別であるので、いくら並べても世界の本質(道理)を見つめることは不可能である。関係のない現象を故意に無視する。そして、分析の刀を鋭く研ぎ、真の可能性の有る事実を抽出するのだ、と先生から何度も言い聞かされた。
 

広東人の其人先生がアメリカの「飛了鳥飛鴉(フィラデルフィア)」にある「ちょっと有名な」プリンストン大学から一年間の客員生活を終え、帰国して大学院の資本論の講義で講壇に上がった。時は1986年11月の初冬のある日だった。午後の講義で西側の教室だった。同学の林尚立、桑玉成、周帆、夏明などを含め、受講生は十二、三名しかいなかった。「抽象のための捨象」についての話しを終え、売猪仔(訪米)について話しをされ始めた。教室の空気に奇妙な躍動感が感じられる中、先生の声があたりに響き渡る、「プリンストンの図書館は素晴らしい」「席に戻るのが面倒だ」「疲れたら、本を重ねて上に座ろうと思ったが、全人類の共通の財産なのでしなかった」「毎日シャワーを浴びた。資本主義の水だから、さらさらと流した」と。
 

先生は冗談を言うつもりだが、笑う受講生は一人もいなかった。頭髪のそれほど多くない先生の頭頂にタ日が照り映え、尊顔から湯気がゆらゆらとまつわりながら立ち上がる。あの時、先生は聖人に見えました。

「総合政策」という道標

2016. 6.6.
総合政策学部 講師  石田 裕貴

総合政策学部の1年生配当の必修科目に、その名も「総合政策」という科目がある。漠然と総合政策のイメージを持って入学してきた新入生に対して、カリキュラムの全体像を示し、どのように専門科目を体系的に学んでいけばいいのか、考えてもらう科目である。「総合政策」の具体的な授業内容は年によって異なるが、昨年と今年については各教員に毎回「~への誘い」というタイトルで、担当する専門科目の概要などを講義していただいている(「~」の部分には各教員の代表的な専門科目名が入る)。そして、私は教務委員という役職の関係上、この科目の取りまとめ役として、新入生に交じって「総合政策」を「受講」している。
 

毎回の講義は千差万別である。学問体系の中で自分の科目を関係付ける、ミニ講義を行う、世間で話題になっているトピックを題材にする、自分の研究・職業経験を語る、など多彩である。教員の専門科目に応じて内容や形式が異なるのは当然であるが、それでも各教員がどのような考えにしたがって教育をしているのかが透けて見えるようで、興味深い。教職に就いた後に、他の教員の授業を聴講する機会はほとんどないので、教歴の浅い私には参考になることばかりである(例えば、多くの教員が大講義室の授業でも学生を当てて発言させていたのには驚いた。私は自分の性格や経験に照らして、教室の規模が大きいときには、受講生に緊張を与えてしまうと遠慮しているのだが…)。
 

私も自分の担当回では「金融論への誘い」を講義する。昨年は要領を得ず、随分独りよがりな内容にしてしまったと反省している。講義のハイライトとして、銀行を経由するお金が世の中をぐるぐる回る様子(専門的には「信用創造」という)を描こうと、(普段の授業では使いもしない)エクセルのスライドを見せながら講義した(これがいけなかったのであろう…)。金額がどんどん積み上がっていく状況を、具体的な数字でイメージしてもらえるはずだったが、新入生はあまりピンときていないようだった。さて、今年度はどのような内容にしようか…
 

入学早々の専門科目を本格的に学び始める前に、教員とその専門科目の特徴を知ってもらう機会は、新入生にとって貴重である。改めて、総合政策学部には多種多様な人材と科目がそろっていると思う。カリキュラムという森に分け入り、新入生が進むべき方向をしっかりと定める上で、「総合政策」は最初のよい道標になるであろう。

初学者向けの教科書

2016.5.23
総合政策学部講師 淡路智典
 

教科書の話が続きますが、私も『教職課程のための憲法入門』という法律を專門としない初学者向け(特に教師になるために教職課程を学んでいる人向け)の憲法の教科書の執筆に参加しました。誰に向けた教科書なのかを、もう少し細かく言うならば、法学部に入学して法律を專門に学ぼうとしている人向けではなく、教職課程の必修科目であるという理由から憲法の授業を履修した人や単に一般教養科目の一つとして憲法を履修した人向けの教科書になります。
 

憲法という法律科目の知識や理念をどう使うのか、どう活かすのかはその人の目標とする将来によって様々に異なってきます。弁護士を目指して勉強している人は、主要な学説、判例を網羅的・体系的に学び、将来、実務でその知識を活かすことになるでしょう。このような学び方は王道ではありますが、憲法を学ぶ人全てが同じように学説や判例の細部まで網羅する必要があるでしょうか。法学部に比べると、授業時間もモチベーションも限られている学生達には、何を伝えるべきでしょうか。

法律の専門家を目指す人以外は、憲法をどう学び、どう活かすべきだろうか。それに対する一つの回答の試みがこの教科書の取り組みです。この教科書はできるだけ法律の専門用語を使わず、どうしても必要な用語に関しては必ず説明を入れました。各章の冒頭で挙げる具体的事例も、学生達とは縁遠い実際の判例などを使うのではなく、学生達に身近な学校現場での事例を用い、人権や憲法が一人ひとりの生活に結びついていることを示すことを心掛けました。この教科書で重視したことは、憲法の基礎知識は正確に伝えつつ、それに加え、我々一人ひとりが主権者であり、かけがいのない人権を持った存在であることを理解してもらうことでした。教員になる人には教育現場で、その他の人には一般社会で、憲法や人権という理念を活かせるようになってもらえれば、執筆者の目的は果たせたことになると思います。
 

大学では数多くの科目が学べます。ある人にとって、専門的に学ぶべき科目であるものが、他の人にとっては一般教養科目であったりもします。同じ科目名であっても、学生のニーズの数だけ、多様な学び方があるはずです。大学教員もそれに応じて、工夫を行っています。昔の大学教育のイメージで、教科書が四角四面で固くて取っつき難いものしかないと思っている方は、ぜひ大きな本屋に行って、初学者向けの教科書のコーナーを見てください。様々な大学の教員が、伝えるための工夫をした多くの本を執筆していることに気付くと思われます。

教科書を書きました。

2016.5.2
総合政策学部教授 矢口和宏

 

先月の15日に経済学の教科書を出版した。タイトルは『経済学概論』であり、大学1年生が学ぶべき経済学の内容をコンパクトにまとめたものである。私は、編者として全体の調整を行うと同時に、一著者として2章分を執筆した。

私が執筆したのは、序章と第1章である。そこでは高校で学習する経済の内容から始まり、大学で学ぶ経済学の概観、そして経済学の考え方を説明している。高校の学習範囲から書き起こしたので、担当章を執筆する際には高校で使用されている現代社会や政治・経済の教科書をいくつか読んでみた。どの教科書も文部科学省の教科書検定に通ったものであるから、学習指導要綱に示された内容をふまえていて体系的に書かれており、教育的な観点から大いに感心した。

大学の教科書は市販の書物であるから、そこには著者の個性があらわれる。また、著者の校正不足による誤植や、専門的な内容であるがゆえに、見当違いによる明らかな間違いが見られるものもある。私も大学時代に担当教員が書いた教科書を利用した授業に出席したとき、偶然にも誤植を見つけてしまった。早速、授業終了後に先生に確かめにいくと、先生は素直に礼を言ったうえで、「ちゃんと注意深く読んでいるかどうかの教育的配慮だよ」と笑って言った。
 

私が所属する総合政策学部では少人数教育を重視しており、1年生から4年生までゼミナールが必修科目になっている。ゴールデンウイーク前の2年生の基礎ゼミナールでは、テキストの読み方に関する講義と演習を行った。そこでは、①大学のテキストには入門書と専門書があること、②入門書は基本的には体系的に書かれてはいるが、大学教員は教育のプロではないので、わかりにくい箇所も多々あること、③大学には学習指導要綱がないので、入門書といえども取り上げている内容には一貫性がなく、個性が出ることを受講生に伝えた。
 

このように、基礎ゼミナールでは一人前のことを言っているが、果たして自分の教科書の出来栄えを問われると、いささか自信が揺らいでくる。本当に経済学のエッセンスを抽出していて、学生にとってわかりやすいものになっているのか不安になる。学生には誤植でもいいから、わかりにくい所を指摘してもらいたい。そのときには、私が習った先生のような対応をとりたいものである。

 *筆者の『経済学概論』は以下の内容です。
 http://mirai-inc.jp/books/others/o_378-6n.html

「荻生徂徠」

2016.4.18
総合政策学部教授 文 慶喆
  

日本には「荻生徂徠」がいる。

このように言ったのは当時朝鮮を代表すると言っても過言ではない儒学者、茶山 丁若鏞(1762~1836年)である。茶山は18世紀後半に生まれ、この時朝鮮社会においては伝統的な農耕社会から商工業社会に移る激動の時期であった。このような時代において当時の儒教の主流であった「性理学」はもはや時代遅れであることを茶山は看破した。茶山は従来の学説には批判的な立場で実学という改革的学問分野を開拓した。彼は革新的な改革思想の所有者で、民本主義と経済的平等の実現を目指す学問を樹立しようとした。彼の代表作には地方官吏の心構えを記した『牧民心書』があるが、彼の流刑中に600冊の著述をしたとされている。また、この『牧民心書』はベトナムのホーチミンが愛読した本の一冊でもあった。この茶山以前の朝鮮は「事大主義」で、中国を充実に学び、充実に従うことであった。しかし、茶山はこれを痛烈に批判した。中国の中国中心的な世界観は間違っている。中国だけが世界の中心である「中国」ではない。極端的な言い方をすると正午が十二時であればそここそ「中国」である。自分が立っているところが世界のどこであれ、自分が中心であればそこが「中国」であると言った。その時代、朝鮮の知識人には中国と日本を体験する機会が与えられた。これを体験する人は「科挙」という最難関の試験に合格したエリート中のエリート達に限られた。科挙を受けるための平均受験勉強期間は約30年で、多くの受験者の中から年間十一人しか受からないとても狭き門であった。この科挙に合格したエリート達は中国を模範とし、日本を低く見る傾向(朝鮮が日本と比べ儒教の先進国である)があった。当時朝鮮の学者達は中国だけを見て、日本に対してはあまり知らなかったようである。そのような風潮の中で、茶山丁若鏞は、「日本には荻生徂徠(1666~1728)がいる」と断言したのである。従来低く見ていた日本の学問のレベルが、日本との交流によって分かるようになったのである。江戸時代の交流の中心は、「朝鮮通信使」であった。朝鮮通信使に選ばれるのは当然の如く最難関の科挙に受かった人達であった(当時、科挙のシステム下では学者が官吏になり、官吏が政治家になる、学者=官吏=政治家の構図であった)。日本の学者と朝鮮の学者は漢文を使った筆談による交流の中で、日本の学問のレベルの高さを知ることになる。特に古文の解釈は原文に充実しながらも独自的な観点での解釈に驚嘆するものがあった。その中でも際立って突出したのが「荻生徂徠」だと茶山は考えた。しかし、茶山は直接荻生徂徠に会ったことがないし、当時の文献を漁っても朝鮮通信使との交流も見当たらない。真の人は真の人が分かる。古人の言葉を借りると、「花香百里、酒香千里、人香万里」である。花の香りは百里、酒の香りは千里、人の香りは万里を行くのである。国が違っても、時代が違っても人間の本性には違いはない。今にも茶山と徂徠の香りが伝わって来るような気がする。しかし、いま茶山が蘇ってきたら日本にはだれがいると言うのかな、興味津々である。

跳ねる木

2016.4.4
総合政策学部教授 三木 賢治

就学前、祖父に連れられて菩提寺で御詠歌を習っていたことがある。仏心などあろうはずもなかったが、寺は東京・麻布の裏通りにあったので、帰りに祖父と寄り道するのを楽しみに通ったものだった。ある日、達筆で鳴らした住職から「学校にあがる前に覚えておきなさい」と苗字の三と木をはじめ簡単な漢字を教わった。住職は半紙に墨痕鮮やかな手本を書いてくれた。

一年生になって間もなく国語のテストがあった。平仮名を漢字にする設問で「き」が出たので、勇躍、手本通りに書いた。ところが、返却された答案には、木に×印が付いていた。縦棒を跳ねたのが間違いとされたのだ。担任からは、大地に根を張っている木の幹の根元が跳ねていてはおかいしい、と指摘された。

ショックだった。自信を持って書いたのに……。手本が恨めしかったが、毛書体では縦棒を跳ねるのも自然な運筆と後に知った。

複雑な顔をして推移を見守っていた祖父の言葉に、生き方を規律されることになった。「何ごとも自分で調べて確かめろ、という教えだね」。祖父はそう言って、分厚い国語辞典を買ってくれた。以来、些細なことも辞書類を引いてみる癖がついた。今も国語辞典を日に十数回も開くのは、木の縦棒を跳ねたおかげと意義深く考えてきた。

今年二月、文化庁の文化審議会が手書きの漢字は「とめる」や「跳ねる」の違いで正誤を判断せず、幅広い字形を認めるとの指針をまとめた。未と末、土と士のように長短で別の字になるのでなければ、はらってもはらわなくても、跳ねても跳ねなくてもよい。木の縦棒を跳ねてもよいのだという。

――そんな馬鹿な。パソコンの普及で印刷文字の字形だけが正しいと誤解されている風潮を改める便法だというが、正誤を安易に変更してよいものか。それよりも、これまでよすがとしてきたものは何だったのか。自分を否定された気がして、テストで×を付けられた時以上にショックだった。

幼い日々に暗記した事柄で、時代の進歩と変化で間違いと化したものは少なくない。ビルマはミャンマーに、カルカッタはコルカタとなった。水金地火木土天海冥のうち冥王星は惑星でなくなった……。だが、それぞれに根拠があり、淵源や由来をないがしろにした変更ではない。

漢字のとめ、跳ねをルーズにすると、円周率を3と教えた時にも似た轍を踏むのではないか。浅慮、安直な世相が危うくてならない。

駄目もと精神

2016.3.17
総合政策学部准教授 増井 三千代

「まずい。水が流れない!」
2年ぶり3度目のオーストラリア研修引率にもかかわらず、こんな経験をするとは想像だにしなかった。これは、滞在先ホテルの洗面所で、真夜中に悪戦苦闘したときのお恥ずかしい話である。

3月のケアンズといえば、夜になっても気温が高く、バルコニーに干した洗濯物は、翌朝には完全に乾く。旅慣れた長期旅行者にとっては、非常にありがたい気候で、私もその恩恵にあやかるべく、着替えをあまり持って来なかった。そして、夜の時間を有効活用するため、寝る直前に毎晩洗濯をすることにした。

洗面台を軽く掃除した後、なんのためらいもなく排水口の栓を指で押し下げ、勢いよく水を貯めた。その日着用したTシャツや靴下などを手洗いし、泡だらけの水を流そうとしたときだ。排水栓を上げるレバーやボタンらしきものが、どこにも見当たらない。洗面台下の収納を開けて、ありとあらゆる部品をいじってみたものの、排水栓はびくりとも動かなかった。日本から持参したカッターを急いで取りに行き、排水栓の狭い隙間に刃を差し込んで栓を持ち上げようとしたが、これも全く役に立たず、むしろ刃の方が折れてしまった。

事態が進展しないまま、時刻は12時を回ろうとしていた。同僚はすでに寝ているだろうし、ホテルのスタッフは朝7時にならないと来ない。かといって、緊急電話をかけて助けを求めるのも気が引けた。そこで、インターネットで情報を探してみた。同じ経験をした旅行者の投稿を見つけたが、回答欄に書かれていたいずれの方法も当てはまらず、途方に暮れた。

そうこうしているうちに睡魔にも襲われ始め、もうあきらめようとした時だった。「押してだめなら引いてみる」という言葉をふと思い出した。どんなに上に引っ張り上げようとしても持ち上がらなかった排水栓を、駄目もとで少し下に押し下げてみた。

すると、排水栓が下がったことによって出来た隙間から、水が少しずつ流れ始めた。指先にもう少し力を込めたが、「これ以上押し下げたら、故障してホテルから賠償金を請求されるのでは」という心配が頭をよぎり、手を放すことにした。その瞬間、排水栓がポンと強い力で上部に押し上げられた。こうして、長時間格闘した洗面台の水は数秒で排水され、あっけなく問題は解決した。この排水栓はプッシュ式だったのである。

翌日、同僚にこの話をしたら笑い飛ばされたが、海外に行くとスマートに処理できないことが増えて、自分が無能だと感じることがよくある。初めて海外に来た学生たちなら、なおさらのことであろう。だが、苦労が多い海外こそ成長する絶好機である。大いに迷い、戸惑い、そこから多くのことを学んで欲しい。

日本国憲法前文を自分のことばで

2016.3.3
総合政策学部准教授 馬内里美

日本国憲法前文を授業で暗記させられたと、何度か聞いたことがある。だが、私にはそのような機会もなく、後ろめたさを感じていた。憲法といえば九条であり、ほかは断片的で、よく知らないままである。

二〇一五年五月、政府がいわゆる「戦争法案」を国会に提出したころ、私は気が滅入っていた。一、二年生対象の基礎ゼミナールで、学生には視野を広げてほしいという思いから、さまざまな話題を提供している。「戦争法案」は取り上げるべき話題であるが、なにか希望がもてるような話題を学生に提供したい、というよりむしろ、私自身が求めていた。

そのときに思い出したのが、日本国憲法前文である。二〇一三年初夏に取り上げたことがある。そのころ、口語訳日本国憲法なるものが話題になっていた。憲法ゼミに入ったばかりの大学生、塚田薫さんが、友人から「憲法ってなに?」と聞かれ、話し言葉で言い換えたのをきっかけとして、全条文を口語訳しネット公開し大反響を呼んだものである。これは、『日本国憲法を口語訳してみたら』として出版されている。

堅苦しく敬遠しがちな憲法の文章だが、「俺たち」で始まる「ため口」語訳は、学生たちにとっても身近に感じられるだろう。日本国憲法前文の正文と「口語訳」、また比較のため自民党憲法改正草案の前文も用意した。学生たちと一緒に詳しく比較してみると、相違がよくわかるものだと思った。

今回はさらに学生たちに、憲法前文をわかりやすい言葉で書き換える課題を出した。一読だけでは、堅苦しい表現が続く正文は、読みやすさでは自民党憲法改正草案と比較して明らかに分が悪い。また、「口語訳」の印象を尋ねると、「チャラい」という。「口語訳」と改憲草案との読み比べで違いが明らかになるものの、もっと正文とじっくり向き合うべきだ。身近に理解するためには、各人がそれぞれ自分の納得のできる言葉を用いて言い換えることが良いのではないか。

私も言い換えを試みた。なるべくわかりやすい表現を目指し、小学校高学年の児童を念頭においた。残念ながら、ぎこちない文章になってしまったが。学生たちも、難解な言葉を易しい言葉に言い換えながら、正文に向き合った。

私も最後に口語で一言。

訳読って今じゃ古くさ!って思うかもしれないね。でも、憲法前文は、訳読ってゆーか、精読っていって、詳しく調べながら読む価値あるよ。精読の練習にお勧めの教材だよ。

木の声、土の歌(9)

2016.2.18
総合政策学部教授 秡川 信弘

義妹が逝ってまもなく七年になる。老いた妻の両親に代わって彼女の面倒をみるために仙台に戻った私たちだが、すぐには義妹との生活をスタートできなかった。介護に不安を持つ私が施設への訪問で義理をはたそうと考えていたからである。優柔不断な私に共同生活を決意させたのは彼女の健康状態の悪化だった。十五年前の冬、薄暗く寒々とした部屋に寝かせられていた義妹をタクシーに乗せて自宅に連れて行き、知人の紹介で大学の付属病院に入院させることができた。退院後の八年ほどの間にさまざまな出来事があり、その一つひとつが今となってはなつかしく思い出される。障がいを持つ彼女の生き方は誰よりも明確に私に生きることの大切さを教えてくれるものだった。

義妹と一緒に暮らし始めた頃、ラムサール条約の湿地登録プロジェクトにかかわることになった。「自然」に見える大崎地方の田園風景は水鳥たちの楽園であった湿地を干拓して造られたものであり、侵犯された楽園の部分返還によって共生関係の再構築を図ることがプロジェクトの目的だった。地元農家の方々にも参加していただき、シベリアから渡ってくる鳥たちと地元住民とがwin-winの関係をつくれるように知恵を絞った。また、環境省の研究予算をいただき、水田を利用した生物保護活動の現場を国内外で見せてもらう中で、自然の原風景を変え野生生物を駆逐した人間にはそれを回復する責務があり、それを実行しうる知恵や能力も備わっていることを改めて理解することができた。

ようやく義妹との生活や研究・教育活動が軌道に乗り始めた頃、本学設立時の虚偽申請の問題が発覚し、マスコミによって報道された。そのさなか、私もTVニュースに出ていたらしいのだが、残念ながら当時の私にはそんな報道番組を見る余裕さえなかった。

それから十年余りの歳月を経た昨年、地元『会津』で世界農業遺産の登録申請に向けた準備が始まり、その一員に加えていただけることになった。ラムサール条約にかかわったことを知った地元の方に少しは使える人間と思ってもらえたらしい。どんなカタチにせよ、地元の方々のお役に立てることは嬉しいことである。また、もう一つの新たな挑戦として沖縄の島おこしにかかわり、東北近県の先生方との協力関係を生みだそうと考えている。

義理と人情にふりまわされ、行く先を見れば「日暮れて道遠し」の感は否定できないものの、これまで自分なりに一所懸命に生きてきたつもりである。これからも義妹を手本に悔いのない人生をすごしたいと考えている。

テロについて語りうること

2016.2.4
総合政策学部准教授 永澤雄治

過激派によるテロ事件は今に始まったことではないが、9.11以降、テロが国際政治を動かす一要因ともなっている。しかし国際政治学の領域で学問的にテロ組織を扱うことは難しい。テロ組織についての客観的情報は極めて限られており、学問的な分析対象にはなり得ないからである。従って大学の授業においても、テロを主題とすることは避けていた。客観的データが乏しく、実証も反証も困難な命題については沈黙する他ないという「科学的」態度を貫いていたのである。

しかし昨年11月にパリでテロ事件が起き、IS(「イスラム国」)が領域支配を継続している現状において、授業で扱わないのは逆に不誠実なのではないかと思い始めていた。というわけで昨年末の国際関係論の授業で、ISについて初めて正面から取り上げたのである。

地下活動を主とする従来のテロ組織とISが異なるのは、領域支配と「疑似国家」の運営という点にある。またネットを駆使したISの広報活動に呼応し、他のイスラム系過激派が連鎖的にテロを実行している。テロ組織間のグローバル・ネットワークが形成されている点も従来とは異なる。ISはイラク戦争後の混乱に乗じて誕生し、中東は米政府が淡くも期待していた「民主化のドミノ」とは対極の様相を見せている。

授業ではテロ事件の映像を見せ、ISについて説明し、米軍、ロシア軍等の対テロ空爆についても触れた。そして最後にパキスタンの11歳の少女の訴えを紹介した。イスラム過激派に支配された少女の村は米軍の無人機爆撃を受け、多くの住民が犠牲になった。野菜を摘んでいる最中に攻撃された少女の家族は祖母が亡くなり、少女と他の家族も怪我を負った。昨年秋に少女は訪米し無人機の爆撃被害を訴えたが、議会の聴聞会に出席した議員は5名だけだったという。 

授業では「この少女の村が被った暴力とテロ組織による暴力に違いはあるのか?」という問いについて受講生に考えてもらった。軍隊による武力行使は国内法の手続きに則り(加えて国連決議もなされていることが望ましいが)、一定の「正当性」が付与されている。しかし暴力の本質において、特にテロ組織とは無関係の犠牲者の視点において両者は区別されるのだろうか。受講生の中には、法的正当性だけでは不十分で空爆対象住民の同意も必要だと主張する学生も複数いた。このような問題について考えることが、同時代に生きる人間として必要な作業になると思うのである。

久しぶりの名著

2016.1.21
総合政策学部准教授 立花顕一郎

正月休みの間に、アメリカ研究の古典的名著を約30年ぶりに読み直してみようと思い立った。その本は3分冊になっている大著なので、まとまった休みが取れる時にしか読めないのである。本棚のどこかに確かにあったはずだと探してみたら、『中巻』と『下巻』はすぐに見つかったが、『上巻』だけがどうしても見つからない。しかたがないので『上巻』だけ買い直すしかないかなと思ったが、なにぶんにも古い本なので、絶版になっているかどうか調べてみてから本屋に行くことにした。ただし、わざわざ駅前まで出かけて行って、無駄足になるのは避けたいというのが真冬の心理である。自分の読書欲と怠け心が綱引きをした結果、インターネット検索の出番となった。いざ調べてみると、案の定、求める本はずいぶん前に絶版になっていた。ところが、ありがたいことに、その本は別の出版社が4巻に分けて出版しているということが分かったのである。

そこでさっそく駅前まで出かけることにした。駅前でバスを降りて、本屋に向かって歩き始めるとすぐに古本屋の看板が目にとび込んできた。そのとき、ひらめいたことは、古本屋に行けば、絶版になっている『上巻』が見つかるかもしれないし、もし見つかれば新刊本を買うよりも財布に優しく、しかも資源の有効活用にもなるかもしれないということだった。こんなふうに、一見、完璧なプランにこそ往々にして問題があるのだが、そのことに気づくのは、ずっと後になってからである。

その古本屋に入るのは初めてだったが、思った以上に混雑していて驚いた。そして、改めて古本への需要が底堅いことに気づかされた。最近は、評判を呼んだ本でもわりあいに短期間で絶版になってしまうことが多いし、売れ行きが悪いと初版だけで再版されない本がたくさんあるらしい。そんな本でも求めている人たちからすれば「宝物」だ。たくさんの本棚の列の中には、私の目当てもあるに違いない。しかし、いざ宝探しを始めると探せども探せども見つからない。小一時間ほど虚しい時間が経った後、一冊の本が目にとまった。しかし、それは絶版の『上巻』ではなく、新しく出た4巻本のうちの第1巻だった。

しかたなく、その第1巻を定価の半値程で買って帰り、家で読み始めてみると、さすがに名著と言われるだけのことはあり、著者の慧眼を示す名文に触れることができてとても幸せだった。それを読み終えて、続きを絶版の『中版』で読み始めた時、すぐに「あれっ」と思った。読んでも読んでもさっぱり理解できないのである。それほどまでに『中版』の翻訳はひどかった。名著も翻訳の出来次第で駄作にもなる。読めば読むほど腹が立ち、結局、4巻全てを新訳で揃えることになってしまった。しかも、1巻以外はすべて正価で購入したので、結構な出費となってしまった。

The Value of Education

2016.1.7
総合政策学部准教授 ジム・スマイリ

These past few decades have seen a tremendous rise in the numbers of young Japanese adults entering higher education. Martin Trow (2007) categorised societies into three groups: those that have around 10% of their population enter higher education are elitist; those with under 50% have mass education; and those over 50% have entered the age of universal higher education. As of 2009, over 55% of 18-year-olds in Japan entered four-year universities, junior colleges or professional training schools according to Mext (Bureau of Higher Education, n.d.). Japan’s youth have more access to higher level training than ever before, but we must ask the critical question about what this universalisation means for the value of higher education in Japan.

Yoshio Sugimoto (2014) draws on the 2010 Japanese census to show that still 70% of Japanese adults have not had any higher education. Japan’s elderly, in particular, are largely uneducated, a fact that keeps the percentage high. He describes the wage differences between those with a degree and those without (see figure 1). Males who have attended a four-year university will earn over 530,000 yen per month on average around the age of 50. This compares very favourably with a similarly-aged high school finisher at 346,700 yen per month. The disparity between graduates and non-graduates leads to a significant lifetime difference.

jim

Having a higher education is still a massively great advantage in Japan, even though that benefit is less than in some western countries (Sugimoto, 2014, p. 126). But as time goes on and the universalisation of the university continues, the advantage will decrease. With more of Japan’s youth being graduates, competition between them for graduate positions will increase. Concurrently, fewer high school finishers will be available to take up the lower level occupations. More and more, these jobs will go to graduates.

The university needs to recognise this in many ways. At the pessimistic end, training students for unskilled jobs seems like a waste of resources and time for both the student and the university. This begs the question that universalisation may not necessarily be productive for Japan. There is another option, one which I sincerely hope Japan realises with gusto. Thinking only about Japan and matters inside Japan leads to an insularity that may destroy the country. As a developed country, the knowledge economy here will continue to require experts in many different areas if Japan realises her position in the world. In other words, I want the university in Japan to look outwards much more. I want them/ us to understand people as a global phenomenon and not as a unit to be measured internally to a single economy. The value of higher education will surely diminish unless the scope of consideration is widened globally.

Bureau of Higher Education. (n.d.). Higher Education in Japan. Tokyo. Retrieved from http://www.mext.go.jp/english/highered/__icsFiles/afieldfile/2012/06/19/1302653_1.pdf
Sugimoto, Y. (2014). Diversity and Unity in Education. In An introduction to Japanese society (4th ed., pp. 530–531). Cambridge: Cambridge University Press.
Trow, M. (2007). Reflections on the transition from elite to mass to universal access: Forms and phases of higher education in modern societies since WW11. In J. J. F. Forest & P. G. Altbach (Eds.), International Handbook of Higher Education: Part 1 Global themes and contemporary challenges (pp. 243–280). Dordrecht: Springer.

キーボードは苦手!

2015.12.17
総合政策学部准教授 河本 進

私は、総合政策学部でWordやExcelなどのコンピューターリテラシーを教える講義を担当している。21世紀になって以来、『ゆとり教育』による大学生の基礎学力の低下問題が指摘されているが、この時代の情報化社会の発展に伴う初等・中等教育の改革や家庭へのパソコンの普及によって、大学入学時のコンピューターリテラシーの能力に関しては、向上してきていることを、文書を入力する課題を課すたびに感じている。大学入学前に、キーボードすら使ったことがなかった私と比較したら雲泥の差である。

私が大学に入学したのは、今とは違って学校や家庭にパソコンが普及していなかった時代である。それゆえ、キーボードを使って初めて文字を入力したのは、大学2年生の時に履修した『電子計算機演習』という講義の中でプログラミング言語を学んだときであった。この授業では、毎回、演習課題のプログラムを書く必要があったのである。キーボードの配置を覚えていない私は、プログラムを書くのに友人と一緒に「aはどこ?」、「bはどこ?」などと言いながら、英数字を右手の人差し指だけを使って1文字ずつ入力していったことを今でも覚えている。幸運なことに、この講義は筆記試験で単位を認定したので、単位は無事に修得することはできたが、キーボードの入力は最後まで身に付かなかった。キーボードによる入力作業にうんざりしていた私は、その後、キーボードによる入力が必要な科目を履修することはなかった。

次に、キーボードと出会ったのは、大学院の博士前期課程(修士課程)を修了後、本学の教員になる前に一般企業に就職をしたときである。私が就職したのは、企業が事務仕事を行うのにパソコンを使い始めた頃で、会社の中には、パソコンによる文書と手書きによる文書が混在していた。このような時代だったので、私が上司に任された初仕事は、

         「この文書、明日必要だからパソコンで入力して」

というものであった。入力を頼まれた文書は、学生時代から進歩していない私の入力速度では、徹夜しても入力が終わらない分量であった。結局、この仕事は、私の入力速度の遅さを見兼ねた先輩の手を借りて仕上げることになった。仕事をするうえで、最低限の入力能力を身に付ける必要性を感じた私は、翌日から休み時間を使って文書入力の練習をするようになった。

社会に出るまでキーボードすらまともに使えなかった私が、大学でコンピューターリテラシーを教えているのだから不思議なものである。大学入学時に学力不足や知識不足を感じている学生もいるとは思うが、勉強する意欲さえあれば大学生活の4年間でいくらでも勉強できる。学生諸君には、社会に出るまでの間に色々なことを学んで卒業していってもらいたい。

今どきのコミュニケーション       

2015.12.3
総合政策学部教授 志賀野 桂一

授業での一こまである。
受講生にアンケートをしてみた。男女のつきあい、結婚観を問う質問を投げかけてみた。

まず男女のつきあいについて「①興味がある、②どちらともいえない、③興味ない」の3択で聞いたところ、驚いたことに「①興味がある」と答えたのは、わずか6%で、「③興味ないと」答えた学生は16%、「②どちらともいえない」は45%、33%は「不明」という結果であった。授業中にいきなり聞かれて答えにくい質問であることを割り引いても、今どきの学生は、男女づきあいに消極的な姿がうかがえる。

結婚観について聞いていくと、将来「①結婚したい、②しなくともよい、③したくない」の3択では、「①結婚したい」が8%、「②しなくともよい」が28%、「③したくない」が34%、30%が「不明」であった。数少ない女子3名は①結婚したいと答えていた。

さらに②③と答えた人の理由を「①面倒くさい、②自分の時間が奪われる、③どうした良いかわからない」3択で聞いてみると「①面倒くさい」が13%、「②自分の時間が奪われる」が35%、「③どうした良いかわからない」が6%、「不明」が39%であった。男子学生の多くが結婚にも消極的であり半数が、結婚は自分にとってネガティブな選択のひとつと捉えていることが判明した。

筆者をはじめとする旧世代の「結婚・子ども・養育」を親(大人)として自明の価値とする立場からすると、学生たちのアンケートの答えに一瞬戸惑うのである。

しかし、こうした結果は予想もできていて、遠因はコミュニケーションの変化にあると考えている。ネット社会がこれほどまでに急速に広がったのは90年代からといってよい。彼らはその申し子なのである。

今や誰でもが持っている携帯電話は普及率100%を超えている。1985年にショルダーフォンとして売り出されたころは、重さ3㎏価格が28万円もした。

そして、メディアコミュニケーションが主流となり、隣の同僚や友人同士が、直接話すのではなく、ネットで会話を交わしている。ネット・コミュニティの招来である。ネット時代に生を受けた子供たちにとって、血の通った生命体としての生身の人間は、少し怖い存在と感じているのではあるまいかと思う時がある。新世代の若者は、相手の喜怒哀楽の読み取りも含めて苦手であり、対人コミュニケーションは、したがって、エネルギーのいる作業で、億劫なことになってしまう。

また少子化で長男長女社会ともいわれるように兄弟同士で、食べ物を奪い合うなどという情景もみられなくなった。口げんかなど同世代同士での体験が少ない。

コミュニケーション論では、できるだけ、伝言ゲームやグループに分けた企画会議の練習など参加型の授業方法取り入れているが、こうしたささやかなアクティブ・ラーニングであっても、知らない[話したことのない]同窓生と話ができたことを「新鮮な体験でした!」などと授業感想に書いてあるのをみると、いかに現在の学生が、孤独なコミュニケーション環境に身を置いているのがわかる。

今どきの学生にあって、男女のつきあいや結婚観に少なくもこうした、新しいコミュニケーション環境が影響しているとすれば、政府の少子化対策も若者の対人コミュニケーションの強化から始めなければならないなどとも考えてしまった授業の一コマであった。

趣味のロードバイク       

2015.11.19
総合政策学部講師 淡路智典

私が本大学に教えるのも早いもので3年目になるが、本大学に赴任したのと同時にはじめた趣味がある。ロードバイクというスポーツ用自転車に乗ることである。

1年目は精々近所を走ったり、平坦な道を20~30キロメートル程度を走るくらいであった。ロードバイクには、ビンディングペダルとビンディングシューズという(スキー板とスキー靴のように)靴とペダルを固定する装置があるのだが、走りだす度に固定するのに四苦八苦、止まる度に外すのに四苦八苦と、おそらく傍から見たら初心者丸出しであったと思う。最初の1年は、ビンディングペダルを外し損ねて、こけて肩や肘をぶつけたり、膝を擦りむいたりすることもしばしばだった。
 

2年目は少し慣れてきたこともあり、週1回コンスタントに40キロメートル位を走るようになった。仙台市街を抜け、秋保温泉の近くまで走り戻ってくると40キロ弱なので、それを定番のコースにしていた。仙台市の中心部は自動車も多く走りやすいとはいえないが、5キロメートルも走れば自動車の数もまばらになり、10キロメートルも走れば自然豊かな風景を見ることができる。

ロードバイクには各種のイベントが開かれている。時間を競うイベントもあれば、完走するのが目的のイベントもある。ロードバイクは1人で走っていてもそれなりに楽しめるが、基礎体力や基礎的な技術が身についた3年目である今年は思い切って、そのような各種のイベントに参加してみた。
 

最初に参加したのは5月に行われた佐渡ロングライドである。この大会には2種類のコースが用意されていて、佐渡島を半周する130キロメートルのコースと、佐渡島を一周する210キロメートルのコースである。私は130キロメートルのコースに参加した。
 

次に参加したのは7月の夏油ヒルクライムである。長距離を走るロングライドイベントとは異なり、一般的にヒルクライムは比較的短い距離をひたすら坂を登り続けるというイベントである。夏油ヒルクライムはヒルクライムとしては、登る距離が短く斜度もきつくないので初心者向けといわれている。約20キロメートルで600メートルくらい登るイベントだった。

9月にはツールド東北の南三陸町を縦断する170キロメートルのコースを走り、10月にはサイクルフェスタ丸森というロングライドイベントに参加し、ロングコース78キロメートルを走った。丸森町は仙台市中心部から50キロメートル程度なので、開催場所まで自転車で行ってみた。丸森のイベント自体はロングライドイベントとしては、比較的短いものであったが、行き帰りの往復を含めたらこれまでのロングライドの最長距離を越える180キロメートルであった。

どのイベントも参加者を楽しませる工夫が凝らしてあり、魅力あふれるものであったが紙幅の都合上、詳述は別の機会にしたいと思う。それらのイベントを全て怪我なく完走することできたことで、3年間でだいぶ体力もついたと実感することになった。しかし、11月の健康診断では、去年に比べ5キロくらい体重が増えていた。ロードバイクにダイエット効果がないのではなく、体力がついた分、筋肉が増えて体重増につながった信じたいところである。

山上げの頃

2015.11.05
総合政策学部教授 岡 惠介

岩手県北上山地の山村では、藩政時代の南部牛の流れをくむ短角牛という肉牛を飼育している、国内の肉牛のシェアでは一パーセントに満たないという珍しい牛である。肉質が霜降りになりにくい赤身肉で、このため以前はホルスタインの廃牛同様の安い値で取引されていたが、最近は消費者の健康志向の波に乗って人気が出ているようである。

農家で飼っているのは牝牛で、これが二、三月の一番寒い時期に子牛を生む。そして春が来て六月の初め頃になると、農家の牝牛たちは子牛を従えて山頂の放牧地に移動する。これを山上げと呼んでいた。そこは国有林なのだが、昔から慣例的に放牧地としての使用が認められているのである。

今では牛をトラックに載せて放牧地まで運ぶ。しかし私が調査をはじめた頃は、多くの農家は牛を後ろから追いながら、放牧地まで歩かせた。私もついて行ったことがある。村と放牧地の標高差は五百メートルほど、たいした山登りではない。そこらの枝を切り取ってふりまわし、道草を食う牛を追いながら歩いた。

途中の沢で少し開けた比較的な平らな場所があり、みんなそこで牛を滞留させている。どうしたのかと思っていると、やおら牛が喧嘩をはじめた。女同士の角突きあいは激しい。あちこちで唸り声がこだまし、小競り合いがはじまる。角に引っかけられて、横腹に血を滲ませているのも出てくる。

聞けばこれは、わざと喧嘩をさせるのだという。この牝牛たちは放牧地でひとつの群れとして暮らすのだが、牛の社会は順位制で一度順位関係が決まれば争いは起きないのだそうだ。

しかし放牧地は柵もなく、牛たちは沢に下りて水を飲んだり、森の日陰で休んだり、広範囲に移動する。足場の悪い急傾斜地で争いが起きれば、沢に落ちるような事故も起こりうる。

そこで放牧地に行く前に、比較的平らな場所でみんなが見ている中で、わざと牛に喧嘩をさせ順位を決めさせる。牛が安全に事故なく放牧地で集団生活を送れるようにとの、人間側の管理技術なのだった。

スペインの闘牛は人対牛だが、日本の闘牛は牛対牛である。闘牛という文化の起源は、こうした牛の群れの管理技術に端を発したものではないだろうか。そんな考えも浮かんできた。

この季節に芽吹く、山村の人たちがもっとも好む山菜シドケ(モミジガサ)を摘みながら、私はあらためて山に棲む人々の知恵の豊かさ、深さに興奮を覚えた。

わが愛しの作家たち

2015.10.22
総合政策学部准教授 大野 朝子

中学時代から本格的に読書に目覚め、常に鞄のなかには文庫本を入れ、暇さえあれば読みふけっていた。夜に読書を始めると、つい熱中してしまい、いつのまにか部屋に朝日が差し込んできて、驚いたこともあった。大学生になってからは、翻訳されていない小説を英語で読みたくなって、背伸びをして、辞書を引きながらペーパーバックを紐解いた。今となっては学生時代のような贅沢な時間の使い方は許されないが、基本的な生活は変わっていない。

英文科の学生だった頃、熱中していた作家はサリンジャー、フィッツジェラルド、カポーティ、マッカラーズである。不思議なことに、どんなに読書経験を重ねても、好きな作家は基本的に変わらない。むしろ年々彼らへの思いは熱くなるばかりで、とどまるところを知らない。彼らの生涯と、作品の特徴を無理矢理ひとことで今ふうにまとめると、ズバリ「青春こじらせ系」である。

サリンジャーは『ライ麦畑でつかまえて』の爆発的ヒットののち、半世紀以上いっさい公の場には顔を出さず、作品も発表せず、隠遁生活を続け、2010年に自宅で老衰のため亡くなった。「謎の作家」としてあまりにも有名である。フィッツジェラルドは1920年代に『グレート・ギャツビー』などで一躍売れっ子作家になったが、1930年代には人気は低迷、多額の借金を抱え、重度のアルコール中毒に陥り、44歳で亡くなっている。カポーティは20代前半で注目を浴びたが、晩年は薬物とアルコール漬けの日々を送っていた。マッカラーズもまた、波乱万丈の人生を送り、50歳で短い生涯を閉じた。

彼らはみな、あまりにも繊細で不器用すぎて、「上手に大人になれなかった」永遠の少年、少女だったのであり、まさにそれゆえ、世代を超えて今も世界中で愛読されている(マッカラーズは知名度が低いが、村上春樹氏の訳が近々登場することになっているようだ。彼女はカポーティと同時代の南部の女性作家で、訳書は絶版になっている)。修羅場に近い人生を送った作家たちの苦労は計り知れないが、これほど愛されれば元は取れるのではないか。

私自身、なぜ「青春こじらせ系」作家たちに引寄せられ続けるのか、その理由は自分でもわからない。もはや恋愛のようなものである。オトナになるにしたがって、背後に捨て去ってしまった、なにか大切なものを、彼らの小説は思い起こさせてくれる。私がサリンジャーの中で一番好きな小説は『フラニーとゾーイー』であるが、さきほど久々に本棚から出して頁をめくってみた。フラニーは『ライ麦』の主人公ホールデンの女子大生ヴァージョンである。純粋さゆえに周囲の若者たちにうまく馴染むことができず、煩悶するフラニー…。ページの間から漂う「こじらせ」臭がたまらず、私は一気に作品のなかに引き込まれ、フラニーと同化して、一緒に泣いたり笑ったりしてしまう。苦いような甘いような、複雑な思いを噛みしめながら。

青春時代が、みなにとって輝かしい世界で作られているとは限らない。

デリケートな若者の心のうずきを書かせたら、上記の作家たちはピカイチである。また眠れない夜を過ごすことになってしまいそうだ。

臨渙(1)

2015.10.8
総合政策学部 准教授 王 元

今回は2013年12月6日の「国見テラス」に私が掲載した「王侯将相寧ぞ種有らんや」の続編にあたる。

我が故郷安徽省臨渙(鎮)は古代の名称で「銍」でした。春秋時代、宋国の銍邑となり、秦の時代は沛地方の銍県となりました。「銍」とは麦を刈る鎌という意味です。つまりこの一帯は中国の麦の蔵ということでした。

現在の地名「臨渙」になったのは「渙水」という河に面しているからだ。三国曹魏の時代、「建安七子」の一人陳琳は魏の文帝(曹丕)あての書の中で「渙水は紋が五色と成り、両岸に才人が多出し、その水勢は曲折で深秀、画本と為ること堪るため、その名を繪と改める」と提議しました。今は「澮」だが、元々は糸偏の「繪」であったのです。しかし、時代によってそれ以前の渙水と呼ばれたり、一定ではありませんでした。そもそも現代の名称、臨渙という名は南北朝の梁武帝(蕭衍)のとき、渙水に面しているので臨渙郡としたということです。

臨渙は今人口一万人足らずの小さな古鎮です。人口だけで見ても、おそらく漢代からそれほど大きな変化はありません。行政区画から見る場合は、秦のとき県に制定され、魏晋南北朝時代に郡へと昇格されました。

秦、漢、魏晋三代は故郷臨渙にとって、最も栄えた時期かもしれません。確かに漢代にここ沛国は劉邦の故郷であり、魏晋のときここ譙国は曹操の故郷であった。かなり繁栄ぶりを見せてくれました。陳琳上魏文帝書に見られるようなことはその証拠でしょう。

経済の面から見れば、臨渙は春秋時代に市場が出来、物資交換の場となりました。秦漢の時代は更に進化し売店のようなものが出来てマーケットとして機能し始めたのです。隋唐の時代、地方の貿易中心地としての役割を果たしていました。当時臨渙にはそのような商店街の路地が八つも網目状に入り組んでいました。

元明清時代は昔ほどではありませんが、依然として河南、安徽、江蘇三省の重要な商業地でした。しかし、この長い間、臨渙の商売人でいえば本省人より、外省人のほうが多かった。そしてその中では特に山西、山東、と河南人が多くいました。という理由から臨渙には山西人会館と福建人会館があります。

隋の時代、県に降格され、譙郡(亳州)に属することになりました。臨渙の衰落が決定的になったのは元世祖フビライ(蒙古帝国第6代大汗にして元朝初代皇帝)のときでした。至元2年(1295年)県より下位の「郷」のままで鳳陽府(後の明太祖朱元璋の故郷)の管轄下になりました。清乾隆55年(1790年)には少し昇格され、「分州」となって、宿州の管轄下に戻りました。宣統(溥儀)3年(1911年)、また「鎮」に降格され、今日に至ります。

カタカナ専門用語は使いたくないのだが…

2015.9.24
総合政策学部 講師  石田 裕貴
 

経済学の大学院に入学し初めての研究セミナーに出席した。外国からの留学生を除いてほとんどが日本人の参加者にもかかわらず、部屋の中を活発に飛び交う(助詞以外の)言葉が、聞いたこともないカタカナ専門用語ばかりで圧倒された。「このオプティマルなソルーションがユニークであることは、プロダクション・ファンクションがコンティニュアスであるというアサンプションによってトリビアルである(この最適な解が唯一であることは、生産関数が連続的であるという仮定によって自明である)」など。

発表者の論文が英語で書かれたものの場合、その論文中のカタカナ専門用語を用いて議論が進んでいくので、おのずと連発されることを後に知った。専門家同士がお互いにある程度の専門知識を共有しているために為せる業である。とはいえ、参加者の専門分野が完全に一致しているわけではないのだから、もう少し理解しやすい用語や日本語訳が選ばれるべきではないのか…、と感じざるをえなかった。

時を経て教員になった私は自分の専門分野(金融論)を講義するのに、発話や黒板の中でカタカナ専門用語を連発させている。「ファイナンシャル・クライシス(金融危機)を未然に防止しようと、マクロプルーデンス政策(金融システム全体の健全性を維持する政策)には資本保全バッファー(緩衝材)やカウンターシクリカル(反循環の=景気循環を抑制する)・バッファー部分が導入されている」など。

講義を聞いてくれる学生は、きっと昔の私と同じように混乱しているにちがいない。しかし、最新の金融のトピックはグローバルな話題として海外から入ってくることが多いので、どうしてもカタカナ専門用語に頼らざるをえない。日本語に存在しないか訳しにくい概念である場合、それを無理に訳出すると本来の意味を損なってしまうか、分かりにくく長ったらしい説明口調になる。そのため、金融業界や学界では、あえて日本語訳に直さないそのままのカタカナ専門用語が使われることが多いように思われる。私も独自に日本語訳を考えるよりも、それを踏襲した方がよいであろう。

というわけで私はカタカナ専門用語を使っている。カタカナ専門用語は、学生にとってなじみの薄い金融への最初の取っ掛かりを一段と高くしていると思うが、その本質部分の理解はそれほど難しいわけではない(と思う)。学生がラベルに惑わされないように、何をどのように教えていくべきか、試行錯誤中である。

ケベックの学生たち―3年前の「メープルの春」

2015.9.9
総合政策学部教授 飯笹佐代子

9月初旬の現在、昨年に引き続き、調査出張でモントリオールに滞在している。大学がホテルのすぐ近くにあるので、ちょうどこの時期、新学期の学生たちを観察することができる。日中、オリエンテーションで、新入生たちが「経営学」、「工学」などのプラカードを持った学生を先頭に列をなして通りを移動していく。夕方、同じ柄のTシャツを来た学生たちがグループで校門付近に待機している。サークルの勧誘活動だろうか。

そして夜、キャンパス内では大音響のなかで盛大な野外パーティが開かれ、美味しそうな肉を焼く匂いが漂ってくる。それが終わると、今度は学生たちが通りに繰り出しワイワイ、ガヤガヤ、大騒動が始まるのだ。こちらでも新入生への一気飲みの強要や、急性アルコール中毒が問題になっていると聞き、ちょっと心配になってくる。

真夜中の喧噪を聞きながら、3年前の「メープルの春」と称された(「アラブの春」に因んで命名)学生運動を思い出した。大学授業料の値上げに対して学生たちが立ち上がり、半年間もデモを続けて、ついに撤回を勝ち取ったという出来事である。デモの拠点は、ここモントリオールであった。2012年3月に滞在した際に、通りを埋め尽くして行進するデモ隊に遭遇し、若者たちの熱気に驚いたことが記憶に蘇ってくる。

カナダでは教育行政は州の管轄であり、大学の授業料も州ごとに異なっている。実は、ケベック州の授業料は他州に比べて格段に安い。2011年度は年間約2700カナダドル(当時のレートでおよそ22万円)で、これはもっとも高いオンタリオ州の4割以下である。その授業料を向こう5年間で毎年325カナダドル(同、およそ2万7千円)ずつ値上げする、というのが当時のケベック州政府の決定であった。5年後の値上げ完了時点の額でも、日本の国立大学の授業料に比べるとはるかに安い。

それでも学生たちが反対に立ち上がったのは、ケベック州では万人が高等教育を受ける機会をとりわけ重視してきた歴史があるからである。反対運動には、これを機に公共サービスの民営化が進むことを懸念した一般市民も加わっていった。さらに、州政府が、50人以上の集会やデモは8時間前に警察にルートを届け出なければならず、違反した団体には高額の罰金を科すという、非常事態法を成立させたことが市民の怒りを呼び、40万人規模の抗議行動へと発展していった。ニューヨークやパリでも、緊縮財政と学生ローンに苦しむ学生たちによる連帯のデモが行われた。そして同年9月、州議会選挙で政権交代した新首相が、値上げの撤回と非常事態法の廃案を公表するに至る。

これらについて、日本ではそれほど報道されなかったように思う。日本の学生たちがこの一連の出来事を知ったら、どのように感じるだろうか。

『日米避戦交渉にかけた男』を読んで

2015.8.27
総合政策学部教授 貝山 道博

日本列島全体が猛暑に襲われたこの8月のある日、一冊の本が送られてきた。岩城求著『日米避戦交渉にかけた男 井川忠雄と「日米諒解案」』(株式会社ウインかもがわ出版、平成27年8月15日発行)である。著者とは大学時代同じゼミに所属し、2年間一緒に学んだ仲である。先生には研究者の道へ進んだらと誘われたようであるが、実家が農業を営んでいることもあって、農業の発展のために尽くしたいということで、農林中央金庫へ就職した。

井川忠雄は、農林中央金庫の前身である旧産業組合中央金庫の理事であった(もともとは大蔵省の役人)。著者の大先輩にあたる。井川忠雄は一民間人でありながら、当時の近衛文麿首相の意を受けて(?)、太平洋戦争勃発直前、昭和16年の2月13日避戦交渉のために渡米するが、目的を果たせず、失意の想いで同年8月15日に帰国する。

岩城氏がなぜ井川忠雄に出会ったのか、そのことは本書には書かれていない。岩城氏とのこれまでの話から想像するに、太平洋戦争を冷徹に見つめてみようという彼の継続的努力が、結果的に井川忠雄に辿りつかせたのだろう。

本書の内容については、皆さんに直接お読みいただくとして、ここでは紹介しない。野村・来栖大使対ハル国務長官の日米交渉だけが、取り上げられがちであるが、民間レベルでの交渉(もちろん避戦交渉)も行われていたという歴史的事実は無視され過ぎていると、著者は嘆く。一時「日米避戦諒解案」が日本の政府統帥部連絡会議でも基本的には了承されていたが、日米双方の事情でこの案が正式な交渉のテーブルに載せられることはなかった。極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)でもこの事実は連合国側に完全に無視されている。

歴史には「もし」はないが、仮に避戦協定が締結されたとしたら、その後の日本の辿るべき道はどう変わったのであろうか。想像したくなるところである。

終戦の日の8月15日、この本のお陰でこれまでとは少し違った思いでこの日を過ごすことができた。

地産地消と合成の誤謬

2015.6.12
総合政策学部教授 貝山 道博

農業振興を通じて地域を活性化する有効策として、「地産地消」(地場生産・地場消費の略)活動が唱えられて久しい。地産地消とは、文字通り、地域で生産された様々な生産物をその地域内で消費することである。地産地消の考え方は農業に限ったことではない。すべての産業に通用する。

地域の需要者が他地域からものを購入せず、自地域からものを購入すれば、域外に漏れていくはずだった需要を域内に留めることができる。そうすることによって、域内生産物に対する需要が高まり、「需要が需要を呼ぶ」という好循環が生じる。地産地消活動が地域を活性化させるのは、この乗数過程を通してである。地産地消活動が地域を活性化させるためには、このように消費者の協力、他地域のものを買わずに、多少高くても(無理をして?)自地域のものを買うということもまた必要不可欠である。

このようにして、地域生産物に対する地域内需要が増えれば地域の生産活動は盛んになり、その限りでは所得も雇用も増える。しかしながら、国内のすべての地域が地産地消活動を展開したらどうなるのであろうか。かつて他の地域に買ってもらったものが買ってもらえなくなるから、地域内需要(内需)が増加する反面、地域外需要(外需)が減少してしまう。新規需要がなければ、それは需要が振り替わるだけになりかねない。

ましてや、地域の人が少々高くても買うという無理をすれば、価格が高くなった分その生産物に対する総需要は減るかもしれない(これまで安い他地域のものを買っていたが、地産地消ということで、高い自地域のものを買うことになるから)。これは地域の停滞を招く。

地産地消活動の究極の姿は、すべての地域が必要なあらゆるものを生産し、消費する鎖国(自給自足)状態である。これが効率的でないことは、アダム・スミスやリカードの時代から唱えられてきた。「分業の利益」という考え方は経済学の最も重要な成果の一つだ。地産地消は当該地域にとっては利益をもたらすかもしれないが、国全体でみれば不利益をもたらしかねない。

このように、ミクロ的には正しいことでも、それが合成されたマクロの世界では必ずしも意図しない結果が生じることを、経済学では合成の誤謬という。

「限界集落の必要性」       

2015.6.5
総合政策学部教授 岡惠介

日本の山村は、過疎・高齢化に悩まされている。人口は減る一方で、耕地は放棄され、かつての田畑が山へと還っていく。二〇世紀の日本は開発の時代で、山が切り開かれて田畑や宅地が造成され、一方では開発の行き過ぎを案じて自然保護が叫ばれた。自然の過剰利用が問題視された時代だった。

しかし二一世紀の今、村は徐々に自然に還り、今まで里山として使っていた自然が、使いこなしきれない時代が来ている。これからは、自然の過少利用が問題になる時代なのだ。

過少利用で拡大した森は、野生動物の絶好の棲み家になる。東北地方でも、シカやイノシシやサルが生息地を広げ、人里近くまで出没するようになった。かつて彼らを恐怖させた鉄砲撃ちは、もはや高齢者ばかり。森と里の境界を丁寧に除草し、獣たちが人目に身を晒さざるを得ない危険なゾーンを作って、人との棲み分けを設計した老婆たちは、草葉の陰に去って行った。

身近な例でいうと、仙台市の西部地域に生息するニホンザルの群れは、個体数を増やし、生息域を拡大し、農作物への被害が問題視されている。少し前までいなかったイノシシも増え、田を荒らすようになった。山から人がいなくなった分、そこに住む野生動物はどんどん勢力を拡大しているのだ。

ここで自然保護を標榜する人々からは、いいではないか、そこはもともと動物の棲家だったのだから、と情緒的な意見が聞こえてくる。

しかしそうではない。現代人は、人が都市に住むのは当たり前であるかのように錯覚している。日本人は農耕民族で、本来は農山村を中心に暮らしてきた。日本人が都市近郊に集住するようになったのは、昭和三〇年代からの高度経済成長以降で、たかだかここ五〇年ほどのことに過ぎない。昔から日本人は国土の七割を占める山にも住み、野生動物たちと棲み分けて暮らしてきたのである。そのバランスが、今大きく変わろうとしているのだ。

しかしこのまま人が住まず、山が荒れ放題になれば、里山が担ってきた森の保水・貯水機能は失われる。山が崩れ、川が氾濫し、土石流、土砂災害が発生することになる。尊い人命や財産が失われ、復旧には多大な税金の投入が必要となるだろう。森を動物たちに譲ってやった、などという美談にはならない。

だから我々は、山村にも人が暮らし、彼らが日々の営みの中で山を手入れし、管理してくれるように、野生動物の生息密度を調整しつつ、共に棲み分けながら暮らしていく方策を探らねばならない。

打率と単位修得率

2015.5.29
総合政策学部准教授 河本 進

春になり、今年もプロ野球のペナントレースがスタートしました。野球には様々な打撃記録がありますが、代表的な打撃記録の一つに打率があり、

 打率=安打数÷打数

で計算することができます。プロ野球で規定打席に到達した打者の年間打率の最高記録は、1986年に阪神タイガースのランディ・バース選手が記録した0.389で、規定打席に到達した打者が打率0.4(4割)を超えたことは一度もありません。なお、1989年に読売ジャイアンツのウォーレン・クロマティ選手は規定打席に達した時点で4割を超えていたが、最終成績は打率0.378で、4割達成はならなかった。

ここで、「安打数」を「合格単位数」、「打数」を「履修単位数」と置き換えると

 単位修得率=合格単位数÷履修単位数

という式に置き換えることができます。それでは、大学を4年間で卒業するには、どれくらいの単位修得率が必要か考えてみましょう。

総合政策学部では、学生が卒業するのに 124単位以上の単位を修得する必要があります。ここで、各授業科目の単位数は、1単位を45時間の学修を必要とする内容をもって構成することになっています。また、通常の授業科目は15週間で実施されるので、1単位の授業科目は、授業と授業時間外の学修を含めて毎週3時間の学修を必要とする内容をもって構成しています。

例えば、1学期で25単位を履修するには、毎週25×3 =75時間の学修することを意味します。週75時間の学修とは、月曜日から金曜日までの5日間、毎日15時間学修することになります。学生がこの学修時間を確保するため、大学では、半年や1年毎に履修登録できる単位数の上限を定めています。この制度を通称「キャップ制」と呼びます。

ここで、キャップ制における年間履修登録単位数の上限を50単位とすると(総合政策学部では、少し複雑な制度で上限設定している)、4年間で履修登録できる単位数の上限は 200単位になります。したがって、4年間で卒業する学生の単位修得率は、124 ÷ 200=0.62以上となります。つまり、卒業生の単位修得率は、打率の夢である4割を優に超えるのです。打率と単位修得率、異なる性質のものが同じ様な式で表せるのが不思議であり、面白い。

「星の王子様」

2015.5.22
総合政策学部教授 文 慶喆

私が一冊の本の中で、一番多く読んだ本は言うまでもなくサン・テクジュペリの「星の王子様」である。この本は私が小学生の時に父が買ってくれた。小学生の頃は他の童話と比べて特段の面白さは感じなかった。挿絵も最初はあまり上手だとは思えなかった。でも何となく一つ一つの物語には興味があった。一回読み終えた後は、暇なときに好きなところだけを開いてつまみ読みをしていた。それが大学生になって本当の面白さが分かってきた。本の最初にある「大事なものは目に見えない」という話が心に伝わってきた時であった。「心で見なくちゃ、ものことはよく見えない」。そうだ。私は単なる文字を通してストーリを読むのではなく、目を瞑ってでも心で読もうと試みた。感じないのは目を開けても目には見えない。

大学二年生の時に入った読書サークルでは、星の王子様を英語本で読むことになった。韓国語訳で読んだ時とは一味違う新鮮さがあった。英語本を読んだ後、中国の大学に行く機会があって中国語訳で挑戦した。内容は全部熟知していた為、読むのに難しくはなかった。日本に帰って来た後に、今度はフランス語版に挑戦した。ただ一年位フランス語を勉強した実力では無理があった。辞書で調べるときに原型が分からず1ページ読むのに数時間もかかってしまった。私の先生に1ページで五回以上辞書を調べたら自分の力に合わない本だと言われたことがあったので、フランス語版は半分位で諦めた。

「星の王子様」を書いたサン・テクジュペリは1900年フランスのリヨンで貴族の子孫として生まれた。しかし、第二次大戦中1941年奧さんと共にアメリカに亡命する身になる。その為「星の王子様」は、アメリカのニューヨークで生まれたのである。最初の原稿は30000単語で書かれたが、出版の段階で半分が切り捨てられた。その後、サン・テクジュペリは1944年コルシカ島から戦闘機の操縦士として出撃し、アフリカの上空で永遠に行方不明になる。「星の王子様」はニューヨークで出版して以来、世界の各言語で翻訳され、毎年100万部が売られ、述べ1億4000万部が売られたという。フランス語で書かれた20世紀最高のベストセラーである。

「今は偉そうにしているどんな大人達も、初めは子供だったのだ」。大人は外面だけ見て、中身を見ようとしない。しかし、本質は中にあるものだ。心を開いて見たら「大事なものは目には見えない」とした世界も目に見えるかな?

クッキーの思い出

2015.5.15
総合政策学部准教授       大野朝子

以前、アメリカに留学中の友人が、一時帰国の際に、お土産に沢山の料理本を持ってきてくれた。なかでも、分厚いペーパーバックの「料理の基本」の本は圧巻で、本格的フレンチから、エスニック料理まで、数百種類のレシピがこと細かに記載されている(写真やイラストは一切ない)。料理の「辞書」という感じだ。さすが、実用性を重んじる国の本だけある。

私にとっての典型的なアメリカの食べ物は、やはりクッキーである。二十代の頃、留学先のアメリカの大学の寮で、仲間たちと一緒に大量のチョコチップ・クッキーとピーナッツバター・クッキーを焼いたことがあった。手作りのお菓子は、ときに市販品とは比べものにならないほど美味しい。ホームステイ先のホストマザーが作ってくれた、即席のショートケーキも、英語の先生が特別に焼いてくれたクリスマス・プディングも、忘れられない味である。

フランスに旅行に出かけたとき、街角のパン屋のカウンターにさりげなく置かれたクッキーを買ってみたら、素朴な味わいに感激した。包装もシンプルで、ただビニール袋に入れただけ。丸いクッキー型で抜いてあるが、中には丸形が欠けたものも「堂々と」混入していた。あっさりした甘味が癖になり、旅行中は常に鞄に入れて持ち歩いたほどだ。

趣味が高じて、これまで大量のレシピ本やインターネットの情報をもとに、様々な種類のお菓子を焼いてきた。それでも「もっと何か珍しいものを作りたい!」と、お菓子作りへの情熱は前のめりになる一方であるが、最近、やっと自分の腕試しをする良い方法を見つけた。それは、「小説に登場するお菓子や料理を再現すること」である。

私が愛読しているアメリカの作家、トニ・モリスンの小説には必ず料理上手な女性が登場する。食事のシーンは、作る側、食す側にとって、無言の大切なコミュニケーションの時間である。モリスンの『ビラヴド』では、主人公セサが、十八年ぶりに再会した友人をもてなすため、急いでビスケットを焼く。粉とラードを混ぜる動作と、ビスケットの膨らみ具合の描写が、セサの喜びを象徴するようで、いつまでも心に残った(その友人は、のちに彼女の恋人となる)。そこで翌日、さっそくビスケット作りに挑戦。セサが焼いたビスケットには劣るかもしれないが、まずまずの出来に満足し、大好きなモリスンの世界へ一段と近づいた気がし、ひとり満足した。

学生たちの卒業論文に寄せて

2015.5.8
総合政策学部教授       飯笹佐代子

毎年2月の楽しみは、ゼミ生たちの卒業論文が仕上がってくることである。3年次から同じテーマを貫く人、何度もテーマを変えながら一つに辿り着く人、テーマ探しにじっくり時間をかける人など、いろんなタイプの学生がいる。自分で見つけるプロセスが何より重要だと思うので、テーマ選定に関しては口出ししないことにしている。いや、こういう言い方は不遜かもしれない。学生たちの発想は私の想定をはるかに超えて個性的かつ豊かであり、刺激を受けているのは、実は私の方である。

T君は就職活動で疲れたときに、癒しを求めて懐かしいウルトラマン・シリーズをビデオで再生してみたら、そこで振りかざされる「正義」に違和感を覚え、「正義論」について探求することになった。政治哲学としての正義論は、かのマイケル・サンデルによって日本でもずいぶん身近なものになった感があるが、ウルトラマンという切り口からは、正義感をめぐる日本独自の社会的、時代的な背景がみえてくる。

ファッションや流行に人一倍関心を持っていたHさんは、「ファスト・ファッション」について調べ始めたら、環境問題や労働環境に目を開かされ、ひいては市場主義に翻弄される「生き方」に直面することになった。最新の流行を採り入れながら低価格かつ短いサイクルで大量生産・販売される「ファスト・ファッション」は、消費者を引き付ける。その一方で、工場のある途上国では製造過程で使われる化学物質で河川や大気が汚染され、また、人々は過酷な労働環境で酷使されている。流行遅れの服を次々と捨てることによるごみ問題も存在する。

一昨年、山形県内最年少で狩猟免許を取得したS君は、それを契機になぜ狩猟が必要なのかについて森林農作物被害から食のあり方まで含めて考察した。音楽好きのY君は、音楽CDの再販売価格維持法から音楽産業の将来を論じてみた。もっといくつも紹介したいが、残念ながら紙面が足りない。

他方で正直に言えば、卒論が形になるまでの過程は私にとっても決して楽な道のりではない。学生たちにしても、「パクリは絶対にだめよ」と繰り返され、引用の仕方、注の付け方、出典の書き方などに一々注文をつけられれば、一度ならずウンザリしたことだろう。だが、それを乗り越えてこそ論文としての完成度は高まる。

自力で調べ、思わぬ発見に遭遇したときのワクワク感、試行錯誤しながら文章を綴り、書き終えたときの達成感。こうした経験は貴重である。それを自信につなげて是非とも今後の人生に活かしてほしいと、切に願っている。

自分たちでつくる場

2015.5.1
総合政策学部准教授       馬内里美

大学にあればよいと思う施設を学生たちに書かせると、商業施設もかなり多い。さらに、誰でも知っているチェーン店の名前も目立つ。改めて考えると気になることである。私たちは、おもちゃ商法に始まり日々ものを買うように仕向けられている。そして、全国どこでも同じようなショッピングモールで休日を過ごすことが日常になる。これでは、モールのなかに大学があればよいと思う学生が出てきても不思議ではない。こんなことを思いながら、あるモールに初めて足をのばした。

社会派作品を送り出している英国のケン・ローチ監督の最新作『ジミー 野を駆ける伝説』を観るためである。最近の映画で監督は、若者を取り巻いている厳しく、また気がかりな状況を描きながら、同時に問題解決へのヒントを示している。前作『天使の分け前』は「負け犬」の若者が、助けを得ながら、自分の将来を切り開いていく物語である。負の連鎖から抜け出すための支援プログラムも映画のなかで描かれている。

彼の映画は内容的にミニシアター系の映画で、シネコンにはそぐわない。ようやく最終日に行ってみたところ、私のほかに年配の男性しかいなかった。邦題をもじり「モールを駆け抜ける観客」として、シネコンでのケン・ローチの映画は矛盾であると思った。

映画の原題は「ジミーのホール」。独立戦争後のアイルランドを舞台に、実在の人物を中心とした映画である。ホールとは、村人たちが自主的な文化活動を行う拠点である。十年ぶりにアメリカから帰国した運動の指導者ジミーは、ホールを再開してほしいと若者たちから頼まれ、仲間たちとホールを再建する。そこで人々は集い歌い踊り詩を読む。その活動は保守的な人々から危険視され、ホールも炎上する。歴史も絡む複雑な背景の説明は省くが、土地を追われた小作人家族を助ける運動を起こしたジミーは、最終的に国外追放となるのである。

ラストシーンのジミーを見送る若者たちの姿は予告映像で知っていた。私は情緒的な物悲しさを予期していたが、良い意味で見事に裏切られた。若者たちは、ジミーに感謝し、自分たちがホールを続けていくと明るく力強く彼に伝えるのである。若者たちの姿は、道を示してきた監督が次世代に送るエールであろう。

大学を、充実した学生生活を送ることのできる場にするためには、店を招き入れる、つまりモール化する、のではなく、学生たち自身でホールをつくることが大切なのだと思う。

英語で苦労した話二

2015.4.24
総合政策学部准教授 立花 顕一郎

前回に引き続き、私が初めてアメリカに留学した際に経験した英語にまつわるトラブルをお話ししたいと思います。

前回はあまりアメリカの大学の授業について触れることができなかったので、まずはそのあたりからお話ししましょう。私が留学したミシガン州の州立大学の授業では先生が一方的に九十分間話し続けるということは皆無であり、その代わりに答えや結論の出にくい議題を学生にディスカッションさせるという形式が主流でした。

学生は授業中の発言回数の多さや説得力の強さに比例して出席点が付けられるので、われ先に発言を競いあうことになります。そのため、アメリカでは大学教員の悩みごとランキングの上位に「学生が授業中にしゃべりすぎる」という項目が入っているほどです。このような状況で、日本人留学生が割り込んで英語で発言するということがいかに難しいかは想像に難くないと思います。そのため、最初の一か月間、私はほとんどディスカッションに割り込むことができず、とても悔しい思いをしました。

宿題で読まされる本や資料を読むために図書館に泊まり込むことも珍しくありませんでした。一つの科目で分厚い本を一週間に二冊読んでくる(もちろんすべて英語で)という課題が出ることも珍しくないので、もしも三科目で同量の課題が出た週にはほぼ一日に一冊ずつ読まなければなりませんでした。後で知ったのですが、頻繁に課題として使われる著名な本の場合には、様々な出版社から重要な内容をまとめた要約本が発売されているのです。アメリカ人学生はそういうものを要領よく読んで週末にパーティをする余裕すらありましたが、私はそんなことも全く知らず、毎日必死で本を読み、授業中に発言すべきことをメモしていました。それでも、当時のクラスメートは私のことをとても無口なやつだと思っていたと思います。

最後は、学期末テストの思い出です。ある科目の先生から試験開始三十分前に研究室に来なさいと言われました。約束通りに研究室を訪れたところ、先生から思いがけない申し出がありました。テストは記述式で多角的な議論が必要だからお前には九十分では足りないだろう。だから、今すぐ研究室で三十分書いてから、他の学生と合流してさらに九十分書きなさいと言って下さったのです。おかげで無事に単位は取得でき、その先生には今でも心から感謝しています。言葉は違っても人情の機微は共通する点があるのです。

心の復興イベント

2015.4.17
総合政策学部教授 志賀野 桂一

阪神淡路大震災から20年、身近に起こった東日本大震災の発災から、4年の歳月がたとうとしています。

私自身、《かたりつぎ》というイベントに関わり今回で4回目となります。1月17日原点の阪神淡路の震災後を知るために神戸に飛びました。早朝神戸の街を歩くと三々五々市民が広場に集まり、献花とろうそくに火を燈し帰っていく。只々それだけの行為なのですが、20年の歳月を過ぎて、今なおこうして行われる鎮魂の催しには、ジンと胸にくるものがありました。

「今後は 助成も支援もどんどん無くなっていくわけで、はたして自力でやっていけるか 家族で生活していけるのか、考えれば考えるほど、不安になるけど、子ども達の存在が、私の心の支えになってくれている。子どもって宝だな、3人産んでいてよかったなって、今、心からそう感じている。」これは、今回、《かたりつぎ》で使われる女川町で旅館業を営むSさんの証言です。

この《かたりつぎ》プロジェクト 当初は、神戸で1999年から行われていた全国公募の「詩の朗読と音楽の夕べ」を踏襲してはじめたのでした。

仙台での第1回目は、全国から集まったマンドリン・オーケストラZIPANGU「絆」の協力で東北大学川内萩ホールで行われました。第2回目からは、東北大学の災害科学国際研究所の協力によって、東北の広域な被災地で拾い集めた証言集の文章を朗読するようになり、意味が大きく変わっていきました。

証言者から許諾をもらい、証言を短く編集し、災害時の事実[情報]と、その時抱いた感情などが交錯する文章に仕上げられています。純粋な詩を読むよりはるかに難しいと思われるそれらの言葉を、女優・竹下景子さんが朗読するという形式を採っています。

第3回、第4回に共通するのは加川広重さんの描いた巨大水彩壁画を舞台背景として使っていることです。今回多賀城市で使われるのは、震災3部作の第1作目の〈雪に包まれる被災地〉という作品です。この絵は、画家にとってのみならず、3.11にとって後世に残る作品(記念碑)と感じるのは私ばかりではないと思います。

美術家・藤浩志は、著書『見る、聞く、話す、感じる、そして考える。』で「被災地は多くのアートに満ちていた。ありえない状態を乗り越え、死と絶望の現場を希望へ変えた瞬間を乗り越えた結果として今の生があったはずである。」と記しています。

私たちは、いま何を感じ、考えなければならないか、時間とともに忘れ去られる負の記憶にしっかりと向き合うことが求められているのではないでしょうか。

葉に隠されたやばい真実

2015.4.10
総合政策学部准教授 王元

あれは学部2年生の時だった。前期か後期かよく覚えていないが、確かに胡守鈞先生の「科学思想史」の授業だった。

胡先生はいわば歴史の勝利者である。「一介の書生であったこの俺の手で、四人組みの一人である張春橋を打倒したのだ」という自負を持っていた。十数年ぶりに教壇に立ったこともあって、毎回懸河の如き弁舌を揮っていた。

授業はルネサンスから佳境に入り、G・ブルーノについての回は非常に印象的だった。先生は同じ8年間入獄していたこともあり、毛沢東政治を「教会」に仕立てて批判した。「教会が無花果の葉で真実を隠した」と。

はて、私は急に先生の「葉で真実を隠した」という声が、耳に雷鳴が炸裂したごとく響いた。自分の中の事の重大さに気づいた私は、放課後一直線に図書館に向かった。「葉に隠された真実」を早く究明しなければならないと。

閲覧室に着くと、辞書棚に難なくあの『THE ENGLISH DUDEN』を見つけた。もう十何年間もこいつを開くことがなかった。そして、あのページにたどり着く、三回確認し、やはり、やばい!と唸って、最後に俄然と笑った。

両親が英語の教師であるため、家の本棚にはこの『DUDEN』があり、小学生の頃よく見ていた。英文の図解辞書なので当然辞書としてではなく、絵本代わりに眺めたのだった。家でこの本を見ることを禁止されたことはないが、堂々と引くこともなかった。百科全書のようなものであるため、子供の目に触れてはよくない「いろいろなもの」があった。子供のくせに私はそれなりにそれを知っていた。わからないものが多かったが、親に説明してもらえないので、想像力を発揮し一人で「解決」しようとした。

その疑問の一つはギリシャ神話の中に出てくる素晴らしい神々の図案であった。「あれ?おとこの神々の一部は変だぞ。奇妙な形になっているが、どうしたのか。」子供の小さい頭でいくら考えても理解できなかった。こういう時、やはり得意な想像力で「解決」するしかない。「神様だから」と。「72も変身ができる孫悟空ほどにはいかなくでも、体の一部を変形させるなんてお手のものでしょう」と。「でも何故あの奇妙な形に?それは、あの時代の流行でしょう、間違いなく」と。

以来十何年もの時間が過ぎていた。ずっと疑いなく神技と信じてきた私は、突然それはただの一枚の葉であることを知った。その時私はすでに大学の二年生になっていた。悲しい!けれど、やっと盲信という葉に隠されたやばい真実を知ったのだから、涙がでるほど大笑いにした。

木の声、土の歌(8)

2015.4.3
総合政策学部教授 秡川 信弘

現金のために2.5acreを耕やしたソローは、「問題自体よりもずっと複雑な公式」(飯田、63頁)を使って問題を解こうとしたのではないと、どうすれば論証できるのだろうか?

彼の説明に従って、当時の賃金水準が「1日平均1ドル」(飯田、p.60)であったとすれば、生活費を差し引いても2週間も働けばよかったはずである。彼には測量や大工などの日雇い仕事で「13ドル34セント」(飯田、p.107)を稼ぐ能力が備わっていたのだから、他にいくらでも仕事はあっただろうに、なぜ割に合わない農業に敢えて取り組んだのだろうか。

彼の「実験」から百二十数年後、生意気盛りの男子中学生たちが教室で交わす話題も矛盾に満ちていた。例えば、創刊されたばかりの「少年ジャンプ」と激化しつつあった「ベトナム戦争」。ジャンプはそれまでの少年週刊誌にはない迫力を感じさせてくれたし、ベトナム戦争は無抵抗の村人たちが武装兵士に殺された「ソンミ事件」のような残虐さに対する憤りを介して、米国内で高まる反戦運動や公民権運動の凄まじさをリアルタイムで実感させてくれた。中学時代の私の記憶は永井豪や本宮ひろ志とともにテト攻勢、キング牧師、ロバート・ケネディ、ホー・チ・ミンなどの固有名詞で彩られている。

その頃の私たちは終業時のホームルームで自薦曲を合唱していた。ある日、「♪走れコウタロー」というフォークソングを歌っていたら、突然、担任の先生が怒り出した。私たちの中学では音楽の授業外の時間に教室で「歌う」ことが規制されていて、その叱責は「不謹慎」を理由に「合唱を中止させないための芝居だった」ことを後になってから聞かされた。

授業はどれも興味深かったが、当時の私には窓の外を流れていく雲を眺め、教科書に落書きすることも同じくらい楽しかったし、こっそり教室を抜け出す開放感は心躍るものだった。

ある秋晴れの日の午後、仲のいい友人たちと一緒に学校の裏山にエスケープし栗拾いをした。翌日、国語の時間に詩を書く機会が与えられた。科目担当の先生が何を書いてもいいと言うので、その栗拾いの話しを書いた。数日後、私の詩が模造紙に書き直され、教室に貼られていた。

その年の冬、授業中の私は相変わらず「聞く」、「見る」、「描く」の選択に迷っていたが、「出る」という選択肢は減少しつつあった。その主因が雪と寒さにあったことは間違いないのだが、原因はそれだけだったのだろうか。今も当時のことがなつかしく思い出される。

【参考文献】HDソロー・飯田実訳『森の生活(上)』、岩波書店、1995年。