文字サイズ
総合政策学部 総合政策学科

「荻生徂徠」

総合政策学部教授 文 慶喆

  

日本には「荻生徂徠」がいる。

このように言ったのは当時朝鮮を代表すると言っても過言ではない儒学者、茶山 丁若鏞(1762~1836年)である。茶山は18世紀後半に生まれ、この時朝鮮社会においては伝統的な農耕社会から商工業社会に移る激動の時期であった。このような時代において当時の儒教の主流であった「性理学」はもはや時代遅れであることを茶山は看破した。茶山は従来の学説には批判的な立場で実学という改革的学問分野を開拓した。彼は革新的な改革思想の所有者で、民本主義と経済的平等の実現を目指す学問を樹立しようとした。彼の代表作には地方官吏の心構えを記した『牧民心書』があるが、彼の流刑中に600冊の著述をしたとされている。また、この『牧民心書』はベトナムのホーチミンが愛読した本の一冊でもあった。この茶山以前の朝鮮は「事大主義」で、中国を充実に学び、充実に従うことであった。しかし、茶山はこれを痛烈に批判した。中国の中国中心的な世界観は間違っている。中国だけが世界の中心である「中国」ではない。極端的な言い方をすると正午が十二時であればそここそ「中国」である。自分が立っているところが世界のどこであれ、自分が中心であればそこが「中国」であると言った。その時代、朝鮮の知識人には中国と日本を体験する機会が与えられた。これを体験する人は「科挙」という最難関の試験に合格したエリート中のエリート達に限られた。科挙を受けるための平均受験勉強期間は約30年で、多くの受験者の中から年間十一人しか受からないとても狭き門であった。この科挙に合格したエリート達は中国を模範とし、日本を低く見る傾向(朝鮮が日本と比べ儒教の先進国である)があった。当時朝鮮の学者達は中国だけを見て、日本に対してはあまり知らなかったようである。そのような風潮の中で、茶山丁若鏞は、「日本には荻生徂徠(1666~1728)がいる」と断言したのである。従来低く見ていた日本の学問のレベルが、日本との交流によって分かるようになったのである。江戸時代の交流の中心は、「朝鮮通信使」であった。朝鮮通信使に選ばれるのは当然の如く最難関の科挙に受かった人達であった(当時、科挙のシステム下では学者が官吏になり、官吏が政治家になる、学者=官吏=政治家の構図であった)。日本の学者と朝鮮の学者は漢文を使った筆談による交流の中で、日本の学問のレベルの高さを知ることになる。特に古文の解釈は原文に充実しながらも独自的な観点での解釈に驚嘆するものがあった。その中でも際立って突出したのが「荻生徂徠」だと茶山は考えた。しかし、茶山は直接荻生徂徠に会ったことがないし、当時の文献を漁っても朝鮮通信使との交流も見当たらない。真の人は真の人が分かる。古人の言葉を借りると、「花香百里、酒香千里、人香万里」である。花の香りは百里、酒の香りは千里、人の香りは万里を行くのである。国が違っても、時代が違っても人間の本性には違いはない。今にも茶山と徂徠の香りが伝わって来るような気がする。しかし、いま茶山が蘇ってきたら日本にはだれがいると言うのかな、興味津々である。