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総合政策学部 総合政策学科

ウズベキスタン紀行

総合政策学部教授 貝山 道博

 

4年前、定年退職を記念し、中央アジアのウズベキスタン共和国を旅した。ウズベキスタンを選んだ理由は二つある。義父から旧ソ連によるタシケント抑留物語をよく聞かされていたこと、以前から繰り返し井上靖の『西域物語』(新潮文庫)を読み、中央アジア(特にサマルカンド)に憧れを持っていたことである。中央アジアに惹かれていたからこそ、義父の話がなおさら印象深く思えたのかもしれない。

義父が抑留者の一人として2年半過ごしたタシケント(ウズベキスタンの首都)はどういう都市なのか。日本人抑留者が建設した国立ナボイ劇場を見学してみたい。帰国できず現地で倒れた方々のお墓はどうなっているのか。亡くなった義父の代わりに墓参したい。13世紀初頭チンギス汗により徹底的に破壊された古代・中世都市のサマルカンドはどのような都市に生まれ変わったのか(私の頭の中には、絵でしか見ることができなかった、破壊尽くされる前の「緑のオアシス城郭都市」「シルク・ロード最大の交易都市」サマルカンドのイメージしかないのだが)。今回の旅行にはこんな目的があった。

インターネットで格安のツアー(7日間のホテル泊・毎日3食つき)を探し、早速タシケントに向かった。思いがけずツアー参加者は妻と二人だけであった。同じ飛行機には様々な団体が乗り合わせていたが、どれも30、40人程度の人数であった。安すぎて不人気だったのか少々不安であったが、心配は全く無用であった。専用のガイドさんとドライバーを抱えたようなものであった。ガイドはウズベキスタンの大学で日本語を学んだ人で、落ちを取るほど日本語を実に巧みに使いこなしていた。お陰さまで行く先々で他のツアー参加者に羨ましがられた。

行程は、タシケント→ヒバ→ブハラ→サマルカンド→タシケントである。タシケントからヒバへは飛行機と乗用車で、ヒバからブハラへは乗用車で(カラ・クム砂漠越え)、ブハラからサマルカンドは乗用車で、サマルカンドからタシケントはモスクワ行きの特急鉄道で移動した。

ヒバはウズベキスタンで最も古い佇まいを残す城郭都市であった。今でも城内に人が住んでおり、我々のホテルもバザールも城内にあった。基本的には砂と土のイメージで、決して綺麗とは言えないが、あるものすべてが長い歴史を感じさせるものであった。

ブハラは様々な遺跡(殆どはイスラム寺院・学校と廟(お墓))が残されており、中世を色濃く感じる都市であった。日本で言えば、京都のような町で、現代と中世がうまく混在しているように感じた。

サマルカンドは憧れのまちであった。殆どが近代的な建物で占められ、ところどころに素晴らしい遺跡が残っている。他の国の大都市と変わらず、道路はたくさんの自動車であふれ、混雑しているが、道路の街路樹(大木の並木)や住宅の庭にあるブドウー棚だけは、私の想うサマルカンドを感じさせる。バザールにも行ったが、ここは昔のままなのだろう。

とはいえ、ジンギス汗に破壊された都市はここにはない。旧サマルカンドは現サマルカンドの郊外の一角にある。チンギス汗に完全に破壊尽くされたので、その当時の遺構は発掘されなかったが、さらに掘り下げていくことにより、アレキサンダー大王に征服された当時(紀元前300年ごろ)の都市遺構を発見することができたので、13世紀初頭まではここにあったのだろうということである。今はアフラーシアーブ遺跡として保存されているが、訪れてみても、ただ草に覆われた丘陵があるだけで、思いを巡らせてみるしかない。それがかえってサマルカンドの悲劇を強く感じさせる。

タシケントはどこでも普通に見られる近代的都市であった。人口は200万人強で、仙台市の半分の面積で2倍の人口を抱えている。交通混雑もすごく、町の建物も殆どは近代的なものばかりであった。その中で国立ナボイ劇場はひと際異彩を放っている。これは日本人捕虜によって建設された。完成から20年ほどたった時、タシケントはM8の大地震に見舞われた。にもかかわらず、このレンガつくりの美しい建物はびくともしなかった。ちなみに、レンガつくりそのものも日本人の仕事であった。義父はもっぱらこの仕事に従事していたとのことである。ウズベキスタンの人々は日本人の技術に驚異し、それ以来親日的となったとガイドさんは言っていた。私たちが訪れたときは、あいにく国立ナボイ劇場は内装工事中で内部を見学できなかったが、外観を見ただけでも、その威容に圧倒される。

国立博物館にも行ったが、建物そのものはどこにでもありそうなものだが、中に納められている展示物が実に見事である。時間がなくじっくり鑑賞できなかったのが悔やまれる。

第2次世界大戦後、ウズベキスタンには約2万4千人が抑留された。粗悪な生活環境、苛酷な労働で、812人が収容中に亡くなられた。タシケントの日本人墓地には79名が埋葬されている。サマルカンドにも日本人墓地がある。どちらにも墓参することができたが、サマルカンドの墓地はあまり訪れる人が少ないのか、タシケントの墓地と較べると、手入れが行き届いていなかった。墓守を専門にする家族(見るからに貧しそうな家族)がおり、墓参者はその都度墓守にお金を渡して、墓の管理をお願いするそうである。ガイドに言われ、私もそうした。よく整備されていたタシケントの墓地とは好対照である。

訪問目的の1割も達成できたのであろうか。再訪を心に決め、タシケントを飛び立った。