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総合政策学部 総合政策学科

分離すれども平等?

総合政策学部講師 淡路 智典


差別とは何か。平等とは何か。この問題を考えるのは難しい。

男女差別・障害者差別など未だ現代社会においても差別の問題はなくなっていない。そして、さらに難しいのは単に法律で差別を禁止し平等を規定するだけで、簡単に解決するわけではないことである。
法律・社会の意識・当事者の行動など様々な要因が揃って、はじめて解決に向かうのである。

その苦難と乗り越えの実例の一つを人種差別とアメリカ史から見ていきたい。人種差別に関する重要な事象としては、1492年にコロンブスがアメリカ大陸到着、その後1619年にアメリカに初めて黒人奴隷がアフリカ大陸より連れてこられる。1775年から1783年にアメリカ独立戦争が起こり、それに伴い1776年に人間の平等を標榜したアメリカ独立宣言が出される。1808年には奴隷貿易が禁止され、1861年にはじまった南北戦争中の1863年に奴隷解放宣言、南北戦争終了後の1865年には奴隷解放を規定したアメリカ合衆国憲法修正13条が批准され、1870年には黒人の参政権を規定したアメリカ合衆国憲法修正15条が批准された。

法的には黒人は奴隷身分から解放され、平等な権利を得たはずだった。
しかし、その平等が実質化されるにはさらに1世紀近い時間が必要だった。

人種間の平等に立ちはだかった考え方は「分離すれども平等」というものだった。

これは公共施設などの数や質といった条件がそれぞれの集団に対して等しければ、人種によって隔離・分離していても許される、という政策である。
例えば、白人専用の食堂を作り、そこから有色人種を排除したとしても、有色人種専用の食堂が用意されていれば、差別に当たらないという考え方である。「分離すれども平等」という考えに基づき、アメリカ南部の州(アラバマ州、フロリダ州、ミシシッピ州など)は様々な人種分離法を作りそれらは「ジム・クロウ法」と総称された。それらの法律は主に有色人種の公共施設等(病院、バス、電車、レストラン、学校など)の利用制限や異なる人種間での結婚の制約を規定していた。

分離政策に反対するために、裁判が行われたこともあった。
「プレッシーvsファーガソン裁判」という裁判である。

1890年にルイジアナ州は鉄道車両を白人と黒人で分けることを定めた法律を作り、これに違反した者に罰金を科すこととした。
白人と黒人の混血であるホーマー・プレッシーが、ニューオリンズから汽車に乗り、白人専用車に坐って再三車掌に黒人専用車に移るよう注意されたが、そのまま乗っていたところ、汽車からおろされ、投獄され、有罪判決を受け罰金を科せられた。プレッシーはルイジアナ州最高裁で敗訴したので憲法修正第13・14条 に違反するとして連邦最高裁に上訴した。しかし最高裁は7対1の多数意見で上訴を棄却した。

この裁判により、「分離すれども平等」という政策は、連邦最高裁のお墨付きを得て、半世紀近くアメリカに残り続けることになった。
判例変更がなされたのは1954年に人種別の公立学校に通うこと否定したブラウンvs教育委員会判決の時点であった。

さらに人種隔離政策全般が無くなるには、1955年のモンゴメリー・バス・ボイコット(黒人が公営バスの白人専用席に座り、運転手からの白人に席を譲るようにという命令を拒否したところ、人種分離法違反で警察に捕まり罰金刑を受けた。その事件に抗議して、キング牧師らがモンゴメリー市民に対して、バスボイコットを呼びかけた運動)をさきがけとして公民権運動がはじまった。

ブラウン判決や上記の運動が波及して、アメリカ全土に人種差別撤廃を求める運動が広まり、1963年には20万人が参加したといわれるワシントン大行進を行う。そのような運動の高まりに応じて、人種や宗教、性、出身国による差別を禁止する「公民権法」が1964年に制定され、翌年黒人の投票権剥奪を禁止した投票権法が制定される。奴隷解放宣言から1世紀を経て、実質的な平等が達成されたのである。

最後に日本に目を向けると、1985年に男女雇用機会均等法が制定され、2013年に障害者差別解消法が制定されるなど、差別解消に向けた様々な取り組みはなされている。しかし、現状には昔のアメリカの「分離すれども平等」のように差別の実態を覆い隠すような考え方は日本のそれぞれの領域に存在してはいないだろうか。そして実質的な平等といえるところまで、あとどれくらいであろうか。それぞれの目で見て、考えてもらえれば幸いである。