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総合政策学部 総合政策学科

教育内容を誰が決めるべきなのか(1)――進化論論争から考える――

2018.4.12
総合政策学部講師 淡路智典


教育内容を誰が決めるのかについては、日本では長年、国家の教育権説と国民の教育権説という二つの考え方を中心に議論が行なわれている。国家の教育権説は、選挙という正統性に支えられた議会が教育内容を決めるべきであり、実際にはその議会の意思を具体化する文部科学省が学習指導要領などを通じて決めていくという議論である。それに対して国民の教育権説は、親を中心とする国民が教育内容を決めるべきであり、実際には親の信託を受けたかたちで教育の専門家である教師集団が日々の実践のなかで決めていくべきという議論である。

この両者の論争自体も興味深いものであるが、海外の議論を他山の石として見ることによって示唆を得ることも有益だろう。そこでアメリカの進化論をめぐる議論を紹介したい。

20世紀のアメリカで進化論を教えることが違法行為だったことがある。20世紀初頭のアメリカの複数の州では州法により、進化論を教えることが禁じられていた。その背景には聖書に書いてあることは一言一句正しいとこであると信じるキリスト教原理主義グループの活動があった。原理主義グループは、聖書の記述から、世界の歴史は古くとも数千年であり、神が人は最初から人として、他の動物は最初から他の動物として作ったと考えていた。(※このような考え方を「創造論」という。)その立場からすると、人間は長い年月をかけて単純な動物から進化してきたとする「進化論」の考え方は許容できなかった。個人で進化論を受け入れないのは個人の自由であり何の問題もないが、原理主義グループはそれだけでは飽き足らず、教育の場で進化論を教えることを禁じるべきと考え、議会に働きかけをした。それに政治家が応じ、進化論を教えることを禁じる州法ができることになった。

1925年、学校で進化論を教えたとして一人の教師が逮捕され、裁判が行われることになった。この裁判で被告となった教師と弁護士グループは、裁判の中で創造論と州法の不当性を訴え、裁判所によって無効を宣言してもらうことを目的としていた。しかし、裁判の結果、その教師は罰金100ドルの有罪となり、法律の無効は認められなかった。その後長きに渡り、進化論を教えることを違法とする法律が残り続けることになった。

そのような法律がなくなるには、第二次世界大戦後、冷戦下での宇宙開発競争で、世界初の人工衛星打ち上げをソビエト連邦に許すという外部からの衝撃が必要だった。