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総合政策学部 総合政策学科

「大邱」と「水崎林太郎」

「大邱」と「水崎林太郎」
2018.03.24
総合政策学部教授 文 慶喆

韓国東南地方の中心地である「大邱市」は、近代以降「ソウル」、「釜山」に次いで韓国三大都市圏をなしていた。大邱の歴史は古く、旧石器や青銅器時代の遺物発見も多くあり、三国時代には新羅に属していた。新羅の首都は「慶州」であったが、大邱は新羅から高句麗と百済との交通の要衝にあり、戦略的に重要な位置を占めていた。自然にも恵まれ、山と川と豊かな平野があり、朝鮮半島南部の中心的な役割を果たしていた。

大邱はまた盆地にあり、日本の京都と似ているところも多く、その一つが繊維産業の発達である。これには大邱が綿花生産の中心地であり、労働力が豊富なことにも起因する。それに加えて、大邱は流通の中心地でもあり、朝鮮の三大市場の一つであった。
大邱は朝鮮半島の南に位置するが、日交差や年交差が大きく、夏の日光量が多いことから韓国ではリンゴの産地としても有名である。

このような大邱だが、日本人にはソウルや釜山と比べると知名度が低く、日本との接点は少ないように思われる。しかし、歴史を漁ってみると意外な人物が登場してくる。

先ず一人が15世紀文禄・慶長の役に加藤清正の配下として参戦し、その後朝鮮に居残った「沙也加」である。沙也加は朝鮮では「金忠善」という名となり、大邱郊外で16代も引き継がれ、祀っている鹿洞書院には毎年多くの日本人が訪ねている。他にも大邱で電力事業や不動産業で大きな富を築いた「小倉武之助」や横綱の「大邱山」がいる。「大邱山」という四股名は、韓国の大邱に由来するのは確かだが、彼自身が韓国出身ということではないらしい。彼の父親が陸軍の御用商人で、仕事の関係から一家で大邱に移住したことに因んで、この四股名になったという。

その中で忘れては行けない人物が「水崎林太郎」である。水崎林太郎は1868年岐阜県出身で、岐阜町長を歴任した後、1915年開拓農民として朝鮮に渡った。朝鮮で農園を営んでいたところ、毎年のように干ばつや水害で苦しんでいる韓国の農民の苦しみが目に焼き付いた。彼は直ぐにこの問題の解決に取り掛かった。最初は朝鮮総督にも直談判し、協力を要請したが断られた。仕方なく自分の私財を投じて、韓国農民の為に治水工事を始めた。約十年の歳月をかけて築造工事を行い「寿城池」という溜池を築造した。その工事は多大な苦難を乗り越えての結果であった。このお陰で韓国農民の苦労は減り、荒野は美田に生まれ変わった。水崎林太郎はその後も1939年までこの「寿城池」を管理していたが、「自分の墓は伝統的な朝鮮風にし、寿城池が良く見えるところに埋めてほしい」という遺言を残して亡くなった。今も韓国風の墓は、寿城池上の丘の斜面にある。寿城池はその後都心に編入され、今は農業用水としての役割を果たし終えている。

しかし、約6万坪にも上るこの池の周辺には緑に溢れ、春には桜が満開し、夏には噴水ショーやスワンボートに乗る家族連れや若いカップルでいつも賑わっている。高台の景色も良く、お洒落なカフェも沢山あり、今は大邱を代表する市民の憩いの場所になっている。最近は韓国人から愛され、尊敬されている日本人が段々少なくなる中で、この「水崎林太郎」は韓国人から最も愛されている日本人の一人であり、何時いつまでも日韓の懸け橋として役割とを果たしてほしいと切に願っている。


大邱の「寿城池」の丘の上にある「水崎林太郎」の韓国風のお墓。