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総合政策学部 総合政策学科

酒造りの歴史

2019.6.5
総合政策学部准教授 渡邊洋一

はじめに
 “酒”とは、広義では「エチルアルコールを含む致酔性飲料」のことで、製法から原料をそのままアルコール醗酵させる醸造酒、醸造したアルコール分を含んだ醗酵液を濾化して蒸留した蒸留酒、そして醸造酒や蒸留酒を原料に香料・生薬・色素等を加えて作った混成酒の3種に分類され、狭義では「日本酒一般(焼酎を含む濁酒・清酒・合成酒)」を指し、極狭義では「清酒」のみを指す場合もある。洋の東西を問わず“酒”の歴史は古く、“人類の歴史=酒の歴史”といえる程“酒の起源”や“製法の発見”等には多くの民族間で神話や伝説として語られており、人類と酒とは切っても切れない仲といえよう。勿論、最初に人類が発見した酒は自然発生的に出来たものであったことが推定され、各地にある“猿酒の伝説”はそれを物語るものであろう。従って、人類が最初に飲んだ酒とされるというのは、土器等の容器に原料となる葡萄等の果実や穀類を放置したところ自然醗酵により生成されたもの(酒)と考えられる。そうした中には前述の葡萄等の醗酵した果実酒や椰子酒等の樹液酒、そしてモンゴル高原等で現在も嗜まれている馬乳酒等の乳酒が最初のものであったと思われる(穀類を酵母菌により糖化して醗酵させて造る酒の製法は先の果実酒や樹液酒等より難しく、雑菌による腐敗も早いため多少時代が下るものと思われる。しかし、高温多湿なインド東部から中国・朝鮮・日本といった東アジアでは比較的早い時期より穀類を醗酵させて醸造酒を造る製法が発明されたと思われる)。では、具体的に何時頃より人類は酒を嗜むようになったのだろうか。また、酒の製造法はどのようにして人類が取得したのであろうか。
 『聖書』では箱舟を降りたノアがアルメニアのアララト山に葡萄を栽培して葡萄酒を生成したと伝えられ(『旧約聖書』「創世記」)、古代ギリシアではディオニュトソス(古代ギリシアの酒を司る神=バッカス)が葡萄の栽培と葡萄酒の醸造を始めたとされている(『ギリシア神話』)。これは果汁に適度な酸味があり雑菌に侵されることが少ない葡萄が比較的容易に嗜好的価値の高い酒を生成出来たからで、葡萄の原産地と目される西アジアからエジプト・ギリシャ・ローマを経てヨーロッパ各地に伝播し、現在のワインへと受け継がれたことを示している。またメソポタミアでは紀元前4000年頃、既にシュメール人が大麦より現在のビールにあたる酒を生成していたと推定されており、また古代エジプトでも紀元前3000年頃には五穀の神オシリスがビールの製造法を伝授したとの伝承記録もある。中国においても黄帝(中国の伝説上の最初の皇帝で、漢民族の共通の祖先とされる)の時代の宰人杜康(とこう)が、また禹王(中国最初の王朝である夏王朝の創始者)の時の儀狄(ぎてき)が初めて酒を造ったといい(『漢事始』)、我が国でも木花開耶姫(このはなのさくやひめ)が狭名田(さなだ)の稲で天甜酒(あまのたむさけ)を造ったとされている(『古事記』上・『日本書紀』「神代紀」)。
 このように“酒の歴史”は文明の発生と共に始まったともいわれ、特に農耕文化においては特徴的な産物であったといえる。つまり、農耕社会においては数々の呪術的・宗教的儀礼に欠かすことの出来ない産物として用いられたからであって、古代の人々は酒の効能によって農業神との対話を行うことで祭事(政)を行ったからに他ならない。従って、農耕文化の発達した所では例外なく神事に酒はつきものであり、農業神=酒神という所も多い。さて、今回はこのような“酒の歴史”について、我が国の酒(日本酒)の歴史を中心にその起源から現在までを簡単に解説してみるものとする。

日本における酒の歴史
1.酒の起源
 中国同様日本における酒の起源も全くといっていい程不明である。とはいえ、縄文人が酒を飲んでいたかどうかは疑問がある。そこには酒が農耕文化とかなり密接な関係を持っている点、また古来日本における酒の主流が米等の穀物で作られた醸造酒が中心であった点等からで、そう考えると日本の酒の起源は稲作が伝わった弥生時代以降ではないかとの推測が成立するからである。そう考えた場合、稲作を中心とした農耕文化の伝来と同時に米等の穀類を原料とする醗酵酒も日本へ伝えられたと考えるのが自然である。しかし、縄文時代に採集された果実や栗等の雑穀から酒が造られたとも考えられ、現に縄文中期の遺跡である長野県八ケ岳山麓の井戸尻遺跡からは山葡萄の種の付着した樽型の土器(有孔鍔付土器)が出土しており、これが単なる食料の貯蔵用の土器ではなく、酒を作る(山葡萄等の果実酒)ための容器だとの説もある。それが事実であれば、今から四、五千年前には既に日本においても酒造りが行われていたということも出来るが、それらについては推量の域を出ていない。確実なところでは『魏志倭人伝』(正式には『三国志』「魏書」巻三十「烏丸鮮卑東夷伝」倭人之条)の中に「人の性、酒を嗜む」「歌舞飲酒をなす」という当時の倭人の風俗を記した記事あって、それが日本における酒に関する初見である。つまり同書が書かれた三世紀後半頃には飲酒の習慣が浸透していたことを示している。
 ところで、日本人の酒の習慣では、古くは一人で飲むものではなく集団の儀礼の中にあって飲むものであった。つまり、日本に農耕文化が定着した後、農業神との対話の中で飲酒の習慣が発生、それは酒を介在した神と人との交流であったことに他ならない。現在も神事には酒が付き物で、“お清め”と称して祭礼の神事の前に飲酒し、神事の後の“直会(なおらい)”と称して御供物として神に捧げた御神酒を参加した人々で飲酒する風習はその名残といえよう。
 では、その様なアルコール製飲料を“さけ”と称するようになったのはどうしてだろうか。古来の日本では“さけ”の他に“き”(“御神酒(おみき)”)“くし”(“奇し”から)“ささ”(宮廷の女房詞で、“さけ”の“さ”を重ねた符牒で、一説には中国でいう“竹葉”に基づく)等の呼称もあった。“さけ”の語源としては“栄え(さかえ)”または“栄水(さかえみず)”が詰まったとする説(酒を神と共に頂くことにより子々孫々まで栄えるという意〈『仙覚抄』〉)等、また神と共に戴く“栄水”の下略で“さか”の転音である説〈『古事記伝』〉)や風寒邪気を“避ける”の意からきた説(『日本釈名』)があるが、古来日本人の飲酒の習慣を見ると前者の方が妥当であると思われる。
(以下 次号)