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総合政策学部 総合政策学科

生前退位をみて思うこと

2019.5.22
総合政策学部教授 文 慶喆

 今年五月一日から「平成」から「令和」に元号が変わり、気分一新して新しい時代を迎えた。

日本最初の元号「大化」から数えて「令和」は248番目にあたるらしい。今回の元号は『万葉集』の中の梅を愛でる歌32首の序文から取られたが、それ以外は中国の古典からの引用で全て漢字二文字である。この248の元号で使われた漢字は意外に少なく83文字で、その少ない漢字の中に私の名前にある「文」は十九回、「慶」は九回、「喆」にある「吉」も一回元号に使われ、合わせると何と二十九回にも及ぶ。今回の改元には「生前退位」による202年ぶりのあまり例の見ない特別なことだという。

 日本ではあまり例のない今回の生前退位を巡って様々な議論が起きたが、朝鮮王朝においては生前退位のようなもの(代理聴政)は結構あったり、絶対権力の王座であっても生前退位させられたりすることもあった。

 朝鮮は1392年、474年間も続いた高麗王朝を倒して李成桂によって建てられた。その後朝鮮王朝は500年間続くが、朝鮮を建国した太祖李成桂から最後の第二十七代純宗までの王位継承を巡ってはドラマよりも劇的な展開を見せる。

 生前退位は早速訪れた。太祖李成桂は勢いで高麗王朝を倒し朝鮮を建国したが、建国後様々な難問に会い生前退位を決心する。太祖には郷妻の韓氏夫人の他に亰妻の姜氏夫人がいたが、姜氏夫人の子に王位を継承しようと動く。これに反発したのが韓氏夫人の五男李芳遠であった。李芳遠は「王子の乱」を制したが、直ぐには王位に継がなかった。五男という立場もあって、最初は次男の兄に譲る。これが正宗である。正宗は二年足らずして実質の権力者である弟の李芳遠に譲位する。第三代王太宗である。つまり第二代正宗は太祖の次男、第三代王太宗は太祖の五男である。

 朝鮮王朝第一の名君として知られる第四代王世宗は、第三代王太宗の三男として生まれた。世宗は最初王位継承権からは遠かった。しかし、紆余曲折あって三男である自分に王位が転がって来たのである。

三男として王位に着いた世宗だが、自分自身は長男継承の原則を強く主張する。世宗は正室から8人の息子を設けたが、長男の文宗をとても寵愛する。寵愛したあまりお妃選びにも強く関与し、最初に選ばれたお妃を何らかの口実で二人も追い出した。世宗は32年間在任したが、最後の五年間は病気を理由に生前退位の形でまだ王太子であった文宗に政治を任せた。

世宗は文宗の邪魔にならないよう王宮を離れ八男の家に隠居する。しかし、元々病弱だった文宗は代理聴政で心労が重なり、いざ王座に就いたら在任2年で死んでしまう。当初文宗に王位を継承することに反対の意見も多かったが、これを押し切って長男継承の原則を貫こうとした世宗だが、これが後々まで王位継承を巡って混乱し、悲劇を生むことになる。文宗が早く死んだ為に第六代王端宗は幼くして王座に就く。元々長男継承に不満を持っていた世宗の次男首陽大君が反乱を起こし、自分の甥である端宗を殺して王座を奪う。これが第七代王「世祖」である。

これ以来朝鮮王朝は王位継承をめぐる骨肉の争いが繰り広げられる。また後になると長男継承ところか王位継承者自体が乏しくなり、例えば、第十四代王「宣祖」は第十一代王「中宗」の七男のその三男として生まれて摘出でもなかった。また、第二十五代王「哲宗」は一文不通の樵で、樵が王になる珍しいこともあった。

 このような朝鮮王朝の王位を巡る骨肉の争いは多くのドラマの素材となり、日本のテレビでもたびたび放映され、興味津々観る人を楽しませてくれる。