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総合政策学部 総合政策学科

クマの受難

総合政策学部教授 三木 賢治


10年ほど前、北海道の離島・礼文島の礼文岳に登った。わずか490㍍の標高ながら自然が豊かで、ハイマツ林が広がる光景には北アルプスの趣が漂う。大海原に隣の利尻島の利尻富士が浮かぶ絶景も魅力だ。

山頂まで2時間ほどのコースだから気軽に登ったが、高山植物に見とれているうちに思いのほか時間を食い、日が暮れかけてしまった。風音が不気味に聞こえた時、北海道にヒグマがいることを思い出して怖気た。

そうだ、大声を出すことだ、と歌を歌いながら、一目散に登山道を駆け下りた。30分ほど走って、息も絶え絶えで麓の売店に駆け込んだ。血相を変えていたらしく、店員が「どうしたの?」と尋ねてきた。「クマが心配で……」と応えると、店員は噴き出した。「礼文にはヒグマは棲んでいないよ」と。一気に肩の力が抜けたが、あの時の恐怖心は今でも忘れられない。

獰猛なクマは危険極まりない。ヒグマより小柄なツキノワグマにしても、出会ったら命が危うい。昨年あたりから東北各県をはじめ各地でクマが出没し、人を襲う事故が続発している。クマが潜んでいることを承知で、なぜ、人は山に入るのか。

専門家は事故多発の原因をいくつか指摘している。ブナなどの木の実の豊作が続き、クマの繁殖活動が活発になったせいで個体数が増加した、人間の食べ物の味を覚えたクマが人里まで出没するようになった……。

その通りなのだろうが、本当の理由は別にある。ネマガリダケや山菜が、山里に暮らす人々の重要な収入源になっていることだ。ネマガリダケやミズなどの山菜はブームで高値を呼び、夫婦で採集すれば日に5万円は楽に稼げる。1シーズンで100万円から200万円の収入を得る人も少なくない。だから、クマを怖がってはいられない。生活がかかっているから、山での滞在時間も長くなる。

駆け出し記者として秋田にいた40年ほど前にも、山菜採りに出かけたお年寄りが道に迷って遭難したり、クマに襲われる事故は珍しくなかった。だが、当時のお年寄りたちの目的は、旬の味で家族を喜ばせたり、子や孫への小遣いを稼ぐことにあった。若者たちが集落から姿を消した今は違う。山菜採りは副収入ではなく、主収入になっている。

クマの事故の背景には、格差社会で切り捨てられた中山間地の人々の悲哀がある。自治体が入山禁止の措置やクマの駆除をどんなに進めても、問題の抜本的解決には程遠い。