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総合政策学部 総合政策学科

私が受験生だった頃

2019.10.28
総合政策学部教授 立花 顕一郎

 例年になく暑かった夏がようやく終わり、涼しくなってきたと思う間もなく、吐く息が白く見えるようになってきました。

この時期、全国の大学では高校生を対象にした大学入学試験の準備が本格化していきます。私が受験生だった頃とは違って、今の高校生は様々な入試の形態を選ぶことが可能です。例えば、秋にはAO入試や指定高校推薦入試、年明け早々にセンター試験、その後にも一般入試などが続き、志望校を複数回受験することは難しくありません。大学側も「受験生の皆さんを歓迎します」という雰囲気を積極的に演出しています。大学のカリキュラムやフィールドワークなどの特色あるプログラムに関する情報をインターネットで常時更新したり、オープンキャンパスに参加する高校生を対象に、在学生や教職員から直接説明したりと細心のサービスを行っています。

 このような状況は、今から35年以上前に私が高校生だった頃には想像すらできませんでした。その当時、私の故郷である石巻市には大学がありませんでしたし、オープンキャンパスのように高校生を迎え入れてくれるようなイベントはどこの大学でも行っていなかったと記憶しています。当時の地方都市の受験生が志望大学について情報を集めるときには、『蛍雪時代』などの雑誌や、『百万人の英語』、『大学受験ラジオ講座』などのラジオ番組などを利用するしかありませんでした。

私はこれらのうち、特にラジオ講座のお世話になりました。『百万人の英語』では國弘正雄先生(後に参議院議員)や鳥飼久美子先生(後に立教大学教授)の講義をよく聞きましたし、ラジオ講座では古文担当の青山学院大学の森野宗明先生(後に筑波大学名誉教授)のファンでした。これらの番組では高校単位で申し込むと放送した講義のカセットテープを無償で貸し出してくれていたので、私も友だちと一緒に高校の先生に頼んで送ってもらい、勉強しました。これらのラジオ番組は放送開始時の目標が、教育の地方格差解消だったということを最近になって知りました。そのため、私のような地方の高校生には本当にありがたい番組でした。

 私が受験生だった頃はまた、ラジオの若者向け深夜番組の全盛期でもありました。石巻は海沿いにあるので、夜になると遠い地域のラジオ局でも非常にクリアーに聞こえました。その頃はインターネットがまだ無かったので、東京と地方の情報格差は今よりも非常に大きかったと思います。ただ、幸いなことに、当時の石巻では夜になると北海道のHBCラジオから大阪のMBSラジオの放送まで、ほとんど雑音を気にせずにクリアーに聞き取ることができました。先に話題にしたラジオ講座も東京の文化放送の電波を受信して聞いていました。

当時は既に、現在もニッポン放送で放送している『オールナイトニッポン』の放送が1967年に開始していましたし、文化放送の深夜番組「セイヤング」(1968年−1994年放送)も受験生たちの疲れた心を癒やしてくれていました。私が特に気に入っていたのは大阪のMBSラジオの『ヤングタウン』という番組でした。インターネットのなかった時代に毎晩自分の知らない関西の話題をリアルタイムで聞くことができるのはとてもうれしいことでした。私がもしも仙台の内陸部に住んでいたとしたら、大阪のラジオ局の電場をキャッチすることはほとんど不可能だったのではないかと思います。

この『ヤングタウン』にはしばしば関西の現役大学生が登場していましたので、私が初めて入学したいと憧れた大学は関西学院大学大学や同志社大学など関西の大学でした。私の高校の同級生のほとんどは東北大学に入学することを夢見ていたので、彼らから私は変わりものだと思われていました。ただ、現実に受験するとなると、高校生だった私にとって関西は外国のように遠い所に感じました。結局、私は東京の大学に進学したものの、今でも心のすみに関西の大学に対する淡い憧れが残っています。

 受験勉強は、高校生だった私にとっては、ゴールの見えない長くて辛い経験でしたので、もう一度受験勉強をやりたいかと聞かれたら即座に「No!」と答えますが、受験生時代に聞いたラジオの深夜放送だけはいつかもう一度聞いてみたいと思っていました。そこで、ある日、気まぐれにYouTubeで昔の深夜放送を検索してみたところ、驚くほどたくさん人気番組がアップロードされているのを見つけました。当時、受験戦争の「戦友」だった同年代が若い頃に聞いたラジオ番組をインターネットでいつでも聞けるようになるとは想像すらしていませんでした。ラジオがそうだったように、今ではインターネットが、同年代の頑張っている姿を想像させてくれています。